今日は前回の続き、「史記を読む三則」の3則目を。


班固(歴史家・漢書の著者)が言うに

「司馬遷が大道を論ずる場合、黄帝(5帝の始めの帝)、老子を先にして六経を後にする。」と。

しかし、これは班固が子長(司馬遷の字)を知らないからの論である。


子長は、孔子を信じ孟子を重んじる考えをもっている。だから5帝、夏、殷本紀の賛全てに孔子の言葉を引いている。漢を興した諸帝のうち、子長はただ一人孝文(文帝 () - Wikipedia )に心服している。だからその賛もまた孔子の言葉を引いている。その他の諸表、世家、列伝において孔子の言葉を引いているのには限りがあるのである。

孔子世家及び仲尼(孔子)の弟子・儒林の2伝において、孔子を尊ぶの気持ちを最もあらわしている。


史記において老荘申韓列伝を論ずるのに、申不害(しんふがい)、韓非子の苛酷で厳しく人情少なく恩が少ない理由を老荘の道徳に帰し、

また孟子を伝えるのに、荀卿(荀子)を引っぱって来て二人並べ、そして鄒奭(すうせき)慎到(しんとう)淳于髠(じゅんうこん)の3人をその間に付け足して一纏めにしている。

このように、順位が付けられているのは明らかである。


六経は孔子、孟子の教えが基本であって、子長の孔孟に対するその信頼・信用・信心・重用が以上の様であるから、どうして孔孟を後にすると言う事が出来るであろうか。


しかし班固は、自分の著述に六家(陰陽家、儒家、墨家、名家、法家、道徳家)の要点を論じて、その中で道家のみ重きを持たせる証明にしたく思っていたのである。これは彼の父の説であって、子長が論ずるところでない。


その他、あるものは黄、老を先にするものがあるが、それには訳がある。漢代の君臣で例えば孝文、陳平(ちんぺい)、曹參(さうしん)、汲黯(きふあん)、鄭当時(ていたうじ)の人々は皆黄、老を学んで、しかも彼らの徳業が優れているのである。

また黄、老の思想がそう簡単に屈服されないからである。


そして子長が目撃する所は、竇嬰(とうえい)、田蚡(でんふん)が儒教を好んだけれど、たまたま彼らの紛争があったり、趙綰(てうわん)、王蔵(わうざう)が儒者であっても、もとより太平の世を興す事が出来なかったのである。


また孝武帝も儒教を喜んだけれど、帝の信用する人間は詐欺師の公孫弘(こうそんこう)、いじ悪い主父偃(しゅほえん)、詞賦で有名な司馬相如、するどい文章家の張湯(ちょうとう)で、彼ら全て伝えるところ、古義を以ってし、文を飾るのに儒教の術を使うのである。


これらは子長が最も憎むところであり、孔孟の教えとか六経の主旨では全くない。

以上が子長が儒者である所以である。


しからば黄、老を先にするような者の如きは、そうしなければならない理由があるからである。

そして史記において六経を後にするという事は、本当に子長を知る者であろうか。


大体、憂世の人の言葉は、俗な情の言葉とは異なり、俗な世人には知る事がない。そこであえて、このような事を議したのである。少しも怪しく思う必要はない。2月24日。