今日で最後にします、ドレツキ博士の表象主義。


多く書かれてある博士の主張の一つに

表象主義テーゼは心についての外在主義的理論である。このテーゼによれば、心的事実は表象的事実に他ならず、表象は頭の中にあるが、それらを表象する事実は頭の外にあり、それゆえ、それらを心的なものにする事実も頭のそとにある。

脳状態が経験であるのは、脳状態が世界をある特定の仕方で表象するときのみであり、

ある状態が世界をそのような仕方で表象するのは、その状態がしかるべき情報運搬機能を持つときのみである。

という事があります。


同じような表現での博士の主張ですので、

私の言い分も同じような言い分になります。


でも趣向を少し変え、訳者にも登場してもらいます。

表象とは訳者の鈴木先生の解説によれば「あるものがそれ以外の何かを表すとき、それは表象と呼ばれる」と言われます。

書かれた文字、話された言葉、絵、写真などがその典型例である。

と。

表象主義によれば、われわれの経験や思考も、世界のあり方を表すという点で、これらと同様に表象である。

表象主義は心の本質を心的状態とそれが表象する対象との関係に求める考え方である。

と言われます。


書かれた文字、言葉、絵、写真な明らかに人間が作った人工のものですが、経験、思考はそのようなものとは、範疇が異なります。

以前わたしが言ったとおりです。


そういう意味で、表象と言うだけではダメな事は明らかです。表象するものが何かを表すとして、その表されたものを何が理解するのでしょうか、誰が理解するのでしょうか、

その主体が問題になってきます。

この主体問題を抜きにして、表象、クオリア、意識、心は語れません。

理解の主体を明示する必要が有ります。



だから、博士の言う

表象とは脳内神経活動パターンであり、その脳内神経パターンが外界の事実に起因している

までは、正しく、


脳状態がある特定の仕方で表象するとか、

ある状態が世界をそのような仕方で表象する

その状態がしかるべき情報運搬機能を持つとき

という事は何かそこにごまかしがあると思われます。



また、同じような事ですが、意識の基本であるクオリアについて

痛みは無意識的な身体状態の気付きである。痛みを経験するときにわれわれが気付く質は、心的出来事の質ではない。それらは身体の物理的状態の性質であり、それらの物理的状態の気付きが、渇き、飢え、吐き気なのである。

それは、われわれがそれらの経験を意識するからではなく、それらの経験が、われわれにしかるべき身体の状態を意識させるからである。

とあり、

始めから「われわれ」をこの自然界に存在させています。

このような考え方の理論・主義は明らかに誤っています。

われわれ」はそう簡単には存在しません。

物理世界の因果関係だけで成立している自然界には、簡単に「われわれ」は存在出来ないのです。



なのでしょうか、博士の極めつけは、

しかし、さきに述べたように、私にはこの問題(上の痛み問題)を十分に考察するための時間も自分で認めるが材料もない。・・・・・・・・

それゆえ、この作業は他の人に任せる事にしよう。

と投げ出しています。


ということで、この博士の本は

“意識のハードプロブレム”に関する本でなく、

心理学的意識の本、

心理学的心の本であります。


たぶん意識の“易しい問題”に関する本でしょう。