福島原発では、ロボットが活躍しているが、
それは、日本製ではないらしい。
日本のロボットは、開発に失敗したとかで完成していない。
こういう危急時に使えるロボットの開発がうまくいかなかったらしいのです。
たぶん、大金が開発にかけられたはず。
でも成果が出ていない。
それが本当ならロボット王国、技術立国、日本の名が、泣いている。
真剣に開発したのか、情けなく・恥かしく思う。
今日はクオリアの続き。
博士のクオリア感は
「クオリアは現象的性質にほかならない、すなわち、ある対象が持つと感覚的に表象される(表象sされる)性質にほかならないと考える事にしよう。
これが意味するのは、他人の(あるいは他の動物の)クオリアにかんする問いは、その人(あるいは動物)の表象s状態にかんする問であり、その状態が表象sする機能sを持つのはどういう性質かにかんする問である」という事なのです。
クオリアは
感覚的な場合の表象状態が持つ性質
または、
その表象状態が表象する機能
という事になるようです。
この事は前回に言った事です。
そこで具体例一つ。ドアベルのシステムとヒキガエルもアーサーの視力について。
ドアベルシステムにおいて
「経験がある対象を表象sする仕方とは、その表象システムが正しく、設計された仕方で働いているときの、経験のあり方である。
規約的表象の場合(人工システムの表象)われわれは、設計者や製造者の目的や意図に目を向ける。」
この場合の表象は、ベルがなったときに
誰かがドアのところにいると表象しているが、
誰がそこにいるのかを告げる事は決してないのです。
これはそれでいいのですが、博士は
「ドアベルシステムがドアのところにいる人を集金人として表象できないのと同じ理由でアーサー(蛙)の視覚システムは、何かがプードルであると表象できない。」
「これはアーサーがプードルとブルドッグと区別できないからではない、という事を私は強調しておきたい。」
アーサーは「(プードルやブルドッグのような)中間サイズの対象を相互に区別する機能(すなわち表象s)を持つ・・・ような状態をしめる事がない。
このような理由から、通常のドアベルが集金人を集金人として表象できないのと同様に、アーサーはプードルをプードルとして経験できないのである。」
と言っています。
以上で博士が言いたい事は、表象の持っている機能が、システムの構造・設計で決まっており、
ドアベルシステムの機能は
誰かがドアのところにいるという機能をもっているが、
誰がそこにいるかは言わないし
蛙のアーサーは
プードルを区別する機能が視覚システムにないから見えない
という事が言えるので、
「ドアベルシステムがドアのところにいる人を集金人として表象できないのと同じ理由でアーサー(蛙)の視覚システムは、何かがプードルであると表象できない。」
という事なのです。
そこで、私がすこしおかしいと感じる点は
まず、ドアベルシステムが表象できる「誰かがドアのところにいるという機能」によりドアベルシステムがクオリアを感じはしないだろうし。
次に、ドアベルシステムの表象は規約的は表象で
アーサーの視覚システムのそれは自然的表象なのです。
(規約的、自然的は博士の言葉で、人工システム、生命体システムと同じです。)
これらはカテゴリーが違うのは誰でも認めるところでしょう。
例えばドアベルシステムには必ず人間の存在が裏に潜んでいます
しかしアーサーの裏には誰もいません、独立、孤立システムです。
従って、表象の内容も全く異なるのは言を待ちません。
つまりカテゴリーが違うのです。
したがって博士の、この表象理論は根本的に間違っています。