いささか、古い話で恐縮します。

先週6日、朝日の夕刊文化欄の記事

山折哲雄先生の「科学技術よ、おごるなかれ」について一言。


記事には、今回の東日本大震災に関する先生の思いが述べられています。


まず、有名な寺田寅彦の「天災は忘れた頃にやってくる」という文章と、


数学者、岡潔の小林秀雄との対談中の岡潔の言葉

「20世紀の理論物理学・科学の王者がやった第一の仕事は“破壊・原水爆”であって、“創造”を何一つしていない。

また自然科学がやったのは“機械的操作”だった」という言葉と、


この寺田と岡の二人の文章・言葉に対する感想から入ります。


先生は寺田の文章に対し、それを寺田寅彦の遺言として捉え、

何千年もの昔から自然の驚異にさらされて来た日本人は、その猛威の前に頭を垂れ、自然に反抗する事を諦めてきたと、

さらに

そのような生き方の中で、自然の中に神の声やヒトの気配を感ずるようになったと、

つまり物理学者・寺田寅彦が自然の前に頭を垂れて、天然の無常に聞き入っていると

結論付けます。


次に、岡潔の言葉に対しては、さらに「自然科学は“葉緑素”一つ作ることが出来ない」との岡潔の言葉を加え、

工学的テクノロジーの異常な発達であり、驚異的な「遺伝子操作」につながっていることを指摘され、


二人の大先輩・科学者、数学者の言葉を借りて先生の結論は

「一言でいえばそれは、科学技術よ、おごるなかれ、ということだったと思う。」

といわれています。



この記事を読み、少しがっかりしました。

というのは私にはどうしても科学技術がおごっているとは考えられないし、現代の物理学者、自然科学者が自然の偉大さ驚異を知らないわけでもなく、また科学技術の限界も充分理解しているはずと思われるからです。

そして、哲学者・宗教学者の泰斗である先生の言葉であるからです。


また私には、理論物理学がやった仕事の第一が“破壊”であり、“創造”は何もないという、岡の発言の趣旨がよくわかりません。

本当にそう思っていたのでしょうか。不思議な事です。

しかしたしかに、“科学技術の限界”はあるのです。科学者自身が一番よく知っています。


すると、先生の言われている、「科学技術よ、おごるなかれ」をどう解釈すればいいのでしょうか。

先生の言葉はたぶん、科学技術の利用について苦言を呈しているのではなのでしょうか。

これは昔から言われていた事で、戦時下での技術、技術行政を間違えるととんでもない事になるというのは、よく知られている常識で、


“使い方を間違えれば、やけどをするよ”いう事でしょう。


という事であれば、先生の「二人の先覚者がその晩年に主張していたこと」は

“科学技術よ、おごるなかれ”ではなく

“身の程をわきまえ、科学技術を使いなさい”ということではないでしょうか。


科学技術も物理現象ですから、自然現象です。

その自然現象の中の選ばれた特別な現象を使いこなすのが、科学技術の利用になります。


それは丁度、山脈の稜線を歩いているまたは細いロープの上を歩いているのと同じで、バランスを崩すとまっさかさまに落下します。

技術の粋を集めた飛行機も同じと思うでしょう。

この事を理解しないと、判断を誤りかねません。


先生の“科学技術よ、おごるなかれ”と言う言葉には何か偏見が感じられます。科学技術は人類を救うのです。科学技術は何も悪くありません。


最後に岡潔の言葉

「葉緑素一つ作ることが出来ない」の言葉について、

先のノーベル賞受賞者クロスカップリングの根岸英一先生の言葉

「空気中の炭酸ガスから炭素を取り出す事が出来れば、人類のエネルギー問題が解決される」

を思い出します。

「葉緑素一つ」と簡単に言っていますが、大変なことなのです。


再度申しますが、

科学技術は人類を救うのです。

ただ技術行政がその能力を有していないのです。

科学技術及び政策をうまく制御できていないのです。

日本・人類は技術行政にもっと力を入れないといけません。