仕事の合間に、意識の追究をやっていますが、同じものばかり食べておればたまには味の変わったものが欲しくなります、つまりは少し毛色の変わった事をしたいと思うものです。


そこで、趣向を変え、松陰先生の文稿を読んでみようと。

先生は、読書において、必ず抄録しなさいと言われます。というのは、心に染みた文章を、心に刻み込むためです。


そこでさらに、僕は抄録をやめ、訳文を書き記そうと思います。そのほうが先生の気迫・息遣いまで聞こえてきそうだから。


そんで、先生が安政2年12月15日(赤穂義士の討ち入りの日)野山獄を免されて松本村の実家である杉家に幽室されていた時の文稿・丙辰幽室文稿を読みます。

丙辰は安政3年、1856年、先生が27歳の時の文です。

渡米失敗(安政元年・1854年3月27日)により帰萩後入獄(1854年10月24日)。松下村塾は、1857年11月5日より自宅で開塾。


幽室は、萩の松陰神社に残っています。

この文稿の原文は漢文稿ですが岩波全集本の読み下し文を使います。

現代語訳の存在しない文章を選びました。




それでは、始めましょう。

「幽室の壁に題す」

私は殿の恩命により、野山の獄を放たれ、病気を家で養生する許しを得ましたこと、ありがたく思います。

然しながら禁錮の身には変わりなく、役人は厳しく外部との交際を禁じている。そこで我が家の一室を掃き清め、そこに退所し、自ら誓いを立てた。

曰く「食事・便所以外にあえて半歩も歩かない。一人二人の親戚以外は、旧友、密接な友人も一切謝絶し、少しも、顔を会わさない。また書信の往復もせず、文章、詩も人の為に一字も書かない。ただ、在獄時の旧友に対しては、時々この例を破り往復する者もある。」と。

私は、さきに獄に居た時、多くの書翰往復をつつしまなかった。これは看守(福川犀之助)が知っていても、禁止しなかったからである。しかし、今は家に帰っている。家庭においては、恩が義を覆い隠してしまう傾向にある。いわんや私が世間においては、すこぶる意見を述べる事が多くなるので、なおさらである。一たび役人の嫌疑に関わるような事になれば、父母・兄の憂いを増す事になるであろう。そういうわけで、この誓いを作ったのである。

ああ、私は大不孝な人間である。そこで今細々と誓いを以上のように立てたのだ。(人は、飲食の無作法と歯で噛み切る事の無いことを問題とするだけである。そうであるかもしれないが、衣装がほころびている事、針に糸を通し補修しないという事がどうしてあろうか。そのようなことは無い。)壁に題目を掲げ自らを戒める。

私が自ら戒める事は以上のとおりである。今、記録して心を通わせる友に示す。心を知る友は、私の心中を諒解してくれるだろう。手渡しの書にも、返答しない。

しかし心の友が学問に長じ、文章も進展することは、呉下の阿蒙 (中国故事)のような無学の人間ではないということだ。

国のため、道のため、勉学し怠る事がなければ、きっと他日驚嘆する進歩があるだろう。




以上が本文稿、冒頭の文で、先生が正月に記したものです。括弧内の文は原文に残るもの。

訳する事は、大変勉強になります。独学・勉強ですから、誤りも、勘違いも多く出てくるでしょう。でもブログの気安さ、詠んでいただける奇特な人は、眉に唾をつけながら読んで下さいね。


松陰先生の息遣いがきっと感じられるし、

さらには、先生の気迫を受け継ぎたいと思います。


全文・50程の文を、今年中目標に読んでいくつもりです。