昨日は、夢のような毎日を送ってはどうでしょうかという提案でしたが、

今日は、どうしてこのような考えが出来上がったのか、を考えて見ました。


あたりまえのことですが、僕の言っている事は的をはずしているかも知れませんので、気合を入れて間違いをさがして下さい。


まず、仏教の根本的考えに諸行無常、諸法無我と言うのがありますよね。Wikipediaにもあります。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%B8%E6%B3%95%E7%84%A1%E6%88%91

ついでに平家物語を使って、盛者必衰、会者定離も。

お釈迦様の考えられたことです。


全ての存在物は

刻一刻と変化流転している、因果応報となり、また縁起ともなり、存在物がお互いの縁起で存在しているとなり、そして“我”そのものも縁起のうちにある、となります。

若いころ、この縁起を断ち切るのが、仏教の目的だと教えられた記憶がありますが、本当かどうかあやしいものです。


このようになると考えると、縁起で存在している全ての存在物は無自性である、という事になり、全てが「空」という基本的認識のもとの思想展開になります。

自性とは独り立ちできるという意味です。


私は悟っていませんから、想像の世界の話として、

悟りに入れば、“自分も含め、この世の全てが「空」であると見える”らしいのです。


この「空」は何度も言っていますように、何もないという意味ではなく、存在の背景に自性がない、存在の根拠がない、お互いに依存しあってしか存在できない、移ろいやすいもの、という意味です。


現実の物体に対しては、我々は簡単に納得します。多くの人々は色即是空、空即是色というのに、納得されています。現実は「空」です。


それでは、自分自身に対してはどう考えているのでしょうか。

現代の我々の認識ではデカルトの言っている「我思うゆえに、我有り」というのが一般的理解と思われます。

全ての事、物にたいして疑問を呈し、否定した結果、最後に残るものは自分自身の意識である、という事。この意識だけは揺るぎのない存在であると結論付けたのです。


しかし、昔のインドの仏教学者はその様に考えなかった。お釈迦様の教えをそのとおり敷衍していけば、自分自身の存在も根拠がなくなると考えざるを得ないのです。

自分自身も「空」です。

仏教以外のインド・ウパニシャッド思想では梵我一如といって、「我」・アートマンと「宇宙」・ブラーフマンの融合が究極の目的となっていました。「我」も「宇宙」も実体として存在していました。ここには、「空」の考えは無いと思います。


しかし、お釈迦様は、そうではなく「空」「無我」を説いたのでした。


そう考えると、

「我思うゆえに、我有り」ではなく、「我思うけど、我なし」になりますよね。自分に実体がないのですから。


自分が存在しない・自分という物に実体がないと理解すれば、

自分が感じているもの、自分が認識しているものも実体などありません。



それでは自分自身の意識はどうでしょうか。


自分の意識も実体がありません。

自分も自意識も実体の無いものと考えます。


自分自身の身体が実体がなく、お互いに依存しあったものの集合体であるように、

この世の存在物はすべて、お互いに依存しあった関係により存在できる。

そして、最終的には自分自身の意識もお互いに依存しあってのみ存在する、

という考え方なのです。


自分・主体は意識により作り上げられたもの、意識も作り上げられたもの、

すると自覚でき、表面に出てくる意識だけが、世界全てをつくりあげる、

これが唯識。


ここで大事なのが、

その意識もお互いに依存しあって存在できるという事。

その意識を依存しながら存在させるものは何か、

私が考えるに、それは脳内の情報群が受け持ちます。


脳内の情報群が自性の無い情報が依存しあいながら意識になるという意味です。脳内の情報は脳細胞の活動に起因します。単独では意味をなし得ません。


(この考え方は、標準ではありません、

高崎先生も「唯識説では、実践主体を除いて、あらゆる法を、我の観念とともに、縁起したものではなく、ただ概念として設定されたもの、仮構されたものとみなしたことになります」と実践主体を特別視されています。

また先ほどのWikipediaでも、意識に対し明確な空性は示されていません。

私が知らないだけで、どこかに書いてあるのかも知れません。)


この観点を持てる人が、悟りに入った阿羅漢であり、目覚めた人だと、解釈できます。



すると、

何が実体とした存在と言えるのでしょうか。

宇宙でしょうか、宇宙存在でしょうか。

梵我の我は実体がないとなれば

梵の方に実体があるのでしょうか。


唯識では

我は、識。

梵の方は広い意味で、アーラヤ識と私は解釈します、


アーラヤ識とは潜在的な原因としての識で、その他の顕在的な七つの識(意識、自我意識をも含め)の原因となり、

過去世の業が今世にまでつながっている原因ともなるものです。


上で、意識は情報が依存しあって作り上げると書きましたが、唯識説ではアーラヤ識が転識(てんじき)・縁起して意識をも作り上げるといわれます。

アーラヤ識は無意識、意識になる前の情報群で、物理的には神経活動という因果律、自然現象と考えるのが自然です。


すると、アーラヤ識はなんだか不変の感がします。自然現象は宇宙の基本現象ですから。


でも、高崎先生は

アーラヤ識は、阿羅漢の位になったときは、アーラヤ識を構成している種子(有漏の種子――煩悩を生む種子)がすっかり尽きますので、したがって、アーラヤ識としての性格を失う事になります

とあり、アーラヤ識も変化すると言ってます。一方僕の理解は“アーラヤ識の性格を失う事だけですから、根本のところは変わっていない”と思いたいですが。


しかし、最近の研究では宇宙も含め変化しています。ビッグバンもあったというようです。


すると宇宙自体も自性は無く、お互い依存しあった関係での存在となるのでしょうね。


すべて何者も、変化しないものは無いと言うのが正しく、

すべてお互いに依存しあった関係となるのです。

変化する物は全て依存関係の中にあるのです。

依存関係は「空」です。訓読みでは「むなしい」のです。

(男心も女心も変わるし、男女は依存関係です。空しいのです。)