前回、東洋思想が複雑でややこしいと書きまして、

でも筆が滑ってしまって、本筋から外れてしまいました。


今日はそのややこしついでの、古代インド仏教の思想。中観と唯識の本を読んで、意識の観点で追っかけてみたいと思っています。今日は特に唯識。以前にも書きましたが、今回は少し観点をかえます。


「唯識入門」 高崎直道 春秋社 で中辺分別論のさわりを。

インド思想、仏教思想は大変ややこしいのです、これはインド人の性格によるものであろうと思うのですけれど、我々日本人は足元にも及びませんでした。

このような思想を生み出した、インド人には敬服・尊敬の念を禁じえません。日本人も負けないようにがんばらなくちゃ。


中観、唯識は中国名、竜樹、無着、世親により完成された思想で

空、アーラヤ識(無意識)で有名ですから、概略は誰もが知っていると思いますけど、



中観は

空、色即是空、空即是色で有名です。空性です。

「依存性(縁起)を我々は空性であるというのである。」

「依存しないで生じたものなぞ何もないのであるから、空でないものなぞ何もない。」

のです。


一方、唯識、

この世にはただ意識があるだけで、私たちの日常の世界というのは、われわれが夢の中で経験している世界と同じだというのです。夢から覚めなければ、夢とわからないように、私たちが住んでいる世界のこと、友達、恋人、両親、生活、家族、希望、欲、我々が真実だと思っているこの世界のこと、ナイフで傷をつけば血も出るし痛いと感じる自分も含めて、真実だと思っている世界が、実はそうではないんですよと言うのです。

お釈迦様から見れば、虚偽のもの夢のようなものなのです。


今日はこの唯識を取り上げます。


唯識は、思想とはいえ当然仏教の思想ですから、修行・悟りのための理論武装的なものです。だから、我々が“ああだ、こうだ”といっても、しょせんお寺の雀が“ピイチク、パアチク”いや“ちゅんちゅん”とやかましくないているだけだと思うんですけれど、

我々からするとすごく刺激の強い、知的好奇心を起こさせる考え方なので、ちょっとだけつまみ食い的に考えてみました。


この考え方は、我々の目の前にあるものが実在で、それをそのまま見ていると思っているけれど、実際そのような固定物が存在しているわけでなく、畢竟、それは我々の心によってつくられたもの、ただ心が存在しているだけである、ということです。


ここでちょっとだけ小難しい理屈を書きます。それは三性説(さんしょうせつ)といって、唯識の考え方で、我々のものの見方、世界の見え方を示したものです。


三性とあるように三つあり、

一番目は遍計所執性(へんげしょしゅうしょう)、次は依他起性(えたきしょう)、最後は円成実性(えんじょうじつしょう)という三つの見え方があるというのです。


一つ目は、我々が常識的に見ている世界のあり方。これが誤った見方だというのです。

二つ目は、物はすべて他に縁って生じているという考え方です。中観のところでいいました依存性・縁起により成り立っているという考え方です。

三つ目は、悟りの境地でのものの見方で“物は真実においては無自性・空である”という見方です。


ここで、無自性とは自分自身で成り立っていなくて、すべてが他に縁って成り立っているということ、つまり、先ほどからの空のことです。


話はそれますが、

“色即是空”とは物体がそれ自身で成り立っていない、お互いに因果関係、因縁関係によって成り立っている、だから空ということである、という主張なのです。

で、一般によく言われているように、物体はエネルギーのようなものであるとかの理解は、この考え方によると、誤りなんですね。空は何もないのではないのです。ああっ、ややっこし!



この三性説の見方をすれば、どうして、我々が見ている世界が夢のような実体のない世界になるのか、少し論理の飛躍がありそうで、このことはおいおい説明していきますが。


この世が夢と同じで、見えている世界が実体がないなどの主張は、カントなどの認識論とそっくりだと思いませんか。

カントの言葉「だから、対象が私たちの認識に従わなければならないと私たちが想定することで、もっとうまくゆかないかどうかを、一度試してみたらどうだろう。」


カントを引っ張り出さずとも、現代の認識論では、対象を認識するのは、意識を通してしか認識できない、現実がどのようになっているかなどは、永遠にわからない、わかっているのは、自分がそのように思っているだけであると。


栄養液の中に浸けられ、桶に入れられた脳が、“外界を認識しているかのような信号をあたえられたら”、あたかも自分・脳が現実の世界に生きているかの感覚・バーチャルな世界を見ていると思うの同じなのです。


しかし

現代の哲学者で、“あなたの生きている現実の世界は、夢の世界と同じですよ。ただ違うのは、この夢が死ぬまで続くんですよ。”と言っている人がいるでしょうか。いるでしょうけど、寡聞にして僕は知りません。



このように現代認知学と驚くほど似通った唯識仏教思想。

説明は省きましたが、その他フロイトの無意識に対応され比較・論ぜられるアーラヤ識。

もちろん主観、客観、自我等に自意識的な観点も盛り込まれています。


これらの思想がどのように生まれてきたのか、すごく興味あるところです。その当時脳の知識がなかったのですが、インド特有の思想梵我の思想から発展した仏教思想。


インド人はすばらしいのですが、

このような考え方が、日本の奈良・南都六宗の法相宗の興福寺・薬師寺などでお坊さんが勉強していたのです。今でもそうでしょうが、昔から。

すると、日本・中国・インド・東洋にもっと近代的な思想が芽生えてもよかったのではなかったのかと思うんですが、

(唯識の思想は近代的思想と考えますけど、あってますか)

いまだに宗教といえば、一部に霊が存在しています。唯識では霊など存在しません。唯識の考え方は、一般には認知されなかったのかもしれません。


それとも、昔の人の唯識に対する思いと、わたしが考えている唯識の理解にギャップがあるのでしょうか。

また、お説教でも、唯識の話を聞いたことねないですね。唯識の考え方は、もう少し前面に出してもいい考え方だと思うんですが、空思想と同じくらいに。


江戸以前の日本思想で、“意識とは何か”の問題を論じた書を見たことがありません。日本人はそういうのに重要性を見つけ得なかったのですかね。


いずれにせよ、この唯識は脳化学意識論の立場から見て、また認識論としても、凄く興味のある考え方です。