前回はフレーム問題が技術的問題ではなく、あくまでも哲学的問題とした仮想の問題であると述べました。技術的には問題なく、少なくとも将来の技術進歩を考慮すれば問題なく解決されます。
したがって以降は、技術的にどうのこうのという“ため口”はおいといて、哲学的アプローチに専念します。
さて、“人間もどき”のプログラムは簡単に作れます。
が、フレーム問題の主旨は、人間もどきのプログラムが作れるかどうかでなく、人の脳内構造がどのようになっているのかを行動面から追及しようとする試みであると理解すべきでしょう。
それではその主旨に沿って論を見ていきましょう。
今日は古典的計算主義がどうしてダメなのかを見ていきます。
まず、古典計算主義の問題点を、先生の論文から引用。
「古典計算主義とは要するに、われわれの周囲にころがっているふつうの多くのパソコンの作動原理となっているものだ。」
とまず、概略を示されます。
普通のパソコンの作動原理が脳システムとは全く異なるのは、誰だって知っている常識ですから、古典計算主義が脳システムと全く無関係であると判断できます。古典計算主義が出来る事は、脳活動のシミュレーションぐらいでしょうか。
でも常識的判断は哲学的論議になりません。哲学者は本質論をおろそかにしないのです。
それで、
「ホーガンとティーソンによれば、フレーム問題の解決は古典的計算主義によっては全く見込みがない。それは古典的計算主義が認知の理論として決定的に誤っていることの証拠である。」
と書かれています。
フレーム問題が解決出来ないから、古典的計算主義が認知の理論ではないという主張です。すると“フレーム問題が解決されればOKか”という事ですが、そうじゃないでしょう。
この上の言葉は多分誤った発言であろうと、思います。
フレーム問題の解決は古典的計算主義で解決出来るし、
解決不可能により認知理論でない証拠とするのは誤りで、他の証拠を示すべき、
という2点を指摘しておきます。
“そうでなく、ホーガンとティーソンが本当に言いたかった事は、
「認知過程は、記号表象を扱うアルゴリズムによって、つまり規則に支配された記号操作のよって実現される。」という事は、ありえないという事です。“
先生がそれをフォローされます。
「ある認知状態A(例えばボールが飛んできたという知覚)から別の認知状態B(それを捕ろうという意図)」に推移する事は日常茶飯事です。
また、これらの認知状態の多くが同時並行的に実現されているのが我々の生活なのですが、
「われわれを一つの複雑な認知システムとしてみれば、われわれの生活とは認知状態相互間の絶え間ない推移のことにほかならない」
というのが、我々の複雑な認知システムなのです。
そして、
「古典計算主義は、この認知状態間の推移を・・数学的関数ととらえ・・この認知推移関数を計算する」事とし、
この計算を
「認知状態相互間の推移関数は、この記号としての表象に対する操作として計算される」
のです。
さらに、この表象を、先生は
「システムの状態が認知状態であるからには、システムの内部状態を構成するが、その不変的構造には属さず、むしろ環境の変化と連動して変化し、その変化が内部状態の変化であるようなものが必要である。それが<表象>だ。」
と強調されます。
つまり、平たく言えば、神経構造ではなく神経構造に従属する神経活動パターンを表象と言っておられると、忖度いたします。
先生はさらに
「記号の操作は、記号の形式的特徴だけに反応する形式的規則によって果たされる。」といわれます。
この形式的規則がアルゴリズムでありプログラムであるのだそうです。
そうすると
「古典計算主義はコンピュータモデルによって、表象の理論的実在性をまさに<目に見える>形で人々に説得する事が出来たのである。もしわれわれの脳がコンピュータであり、心がプログラムなら、心的表象が存在しないことは、プログラムを書くための言語記号が存在しないということに等しいであろう。」
という事になるのです。
古典計算主義が認知モデルであるという根拠に相当します。もし我々の脳がコンピュータであり心がプログラムであればの話ですが。
でもそうじゃない事は誰だって知っている常識です。
実は、ホーガンとティーソンの主張は、
古典計算主義の前提のプログラムについて「われわれの認知は、表象自身を扱うプログラム可能な規則に従って進行するわけでもないし、その推移関数は、いかなる物理的な手段によっても計算不可能である」と言う認識の下、
「ニューラルネットワークにおける並列分散処理を唱え、それを数学的にはダイナミカル・システムとして理解するような」主義なのです。
つまり、前述の文、
“そうでなく、ホーガンとティーソンが本当に言いたかった事は、
「認知過程は、記号表象を扱うアルゴリズムによって、つまり規則に支配された記号操作のよって実現される。」という事は、ありえないという事です。“
の詳細が以上に示されました。
そこで、話は少し変わり、
先生は、彼らの主張が正しいかどうかは今問題にしていない。そうでなく古典計算主義の枠内ではフレーム問題が解決不可能である理由を知りたいと言っています。
そのため先生はホーガンとティーソンが言っている
「実はフレーム問題にとって、一見したよりも遥かに本質的な点で重要かもしれない」に焦点を当てます。
それは
「交差点に近づいているときいつブレーキを踏むか、を正確に決定しているような規則があるだろうか。あるいは仲間とおしゃべりや仕事の最中にいつコーヒーカップを手にするか、を正確に決定しているような規則があるだろうか。ブレーキをいつ踏むか、仕事にいつ戻るかを正確に決定しているような、内的な認知規則があるのだろうか?」
と言う通常の行動の事例で、
これらをも含めた規則、表象を考えると、
「規則が扱うべき表象が際限なく、規則を必要とする作業の種類も際限ない」のでどうしようもないというのです。“際限のない困難なシステムになる”と本質的に重要な点を指摘します。
こうなれば、万能型知性その物を扱わねばならなくなり、一能型知性では埒があかないことになるというのです。
古典的計算主義は、先生の理解では、
「古典計算主義の提案する規則がチェスゲーム・プログラムのように一能型知性であったのは、たんなる技術的な問題ではないだろう」とされ、古典計算主義が万能知性を本質的に扱えないという理解をされているようです。
そして先生は
「フレーム問題の突き刺さる地点とは、知的システムだけを取り扱う部分的な理論ではなく、狭義の認知システムを組み込んだトータルな生存システムを扱う理論の次元ではないだろうか」と問題点をシフトされ、
トータルな生存システムを扱える理論でないとダメであるという結論を下されているようです。つまりトータルを取り扱わねばならないのです。
古典的計算主義はトータルを取り扱えないと考えられておられます。
さらに、古典的計算主義の守護神のようにおもわれているフォーダーの嘆きを引用します。同じ論拠です。
「つまり、認知モジュールは、担当領域に関して処理スピードが速く処理結果も正確であるが、その代わりに、トータルな状況認知においては錯誤や誤謬を誘発する原因になる。」
「心の計算理論の妥当性はある領域内部での情報処理がローカルであることに依存するのに対し、関連性とはまさしくローカルではなく、グローバルもしくは全体的な情報処理を要求することだ。」
なのです。
結局、この章の結論として
「人間のような認知システムの場合、領域が大きすぎて心理学的モデルとしては現実的でない。それどころか、フォーダーによれば、それは<破壊的な全体論>を受け入れることにほかならない。
とすれば、もはや古典的計算主義以外のアプローチに頼るほかはないが、現在知られている唯一のそれは、コネクショニズム」なのです。
問題はフレーム問題というよりより現実的・全体的処理能力問題に変わりました。
そもそもフレーム問題の本質的な問題点は、以下の問題をいかにうまく処理をこなすかと言う点がポイントであったはずです。
①無視出来るところを無視する
②情報を関連性のおいて整理する
③規則と例外、特別な事情をうまく処理する
この中の②に対し現実の生活において破壊的に大きすぎると言っているのです。
古典的計算主義では一能型知性、ローカルなモジュールくらいが精一杯で、万能型知性、グローバル、全体的、トータルな処理が要求された場合どうしようもないのです。
これは多分、このように言っている人たちは、古典的計算主義を不当評価しているからにほかなりません。よくご存知のように最近のスーパーコンピュータの処理能力、また最新のアルゴリズムの発達は目を見張ります。さらにこの領域の進展はとどまるところを知りません。ですから、処理能力不足だけでダメといっているのならば大間違いです。
そうではなく、古典的計算主義では、心理学モデル(脳システム)を表現できないというのなら、
脳システムと古典的コンピュータの差異には、アーキテクチャーとか、アルゴリズム、情報の表現法等の根本的・本質的な差異があり、その差異は従来のコンピュータでは埋められない事を証明する必要があります。
でないと、古典的計算主義は脳システムを扱えないと哲学的に結論できません。