昨日までのブログでは

力学系的認知観には表象ではなく、脳・身体・環境のカップリングが、

一方、表象主義では表象の操作が認知になるという事。


力学系的認知観とは、ワットの調速機をモデルとし、脳・身体・環境の密接な相互作用・相関(カップリング)が認知に必要であるとの考え方で、特に表象概念が不要であるとする理論でヴァン・ゲルダーと言う人が唱えた理論、

表象主義はデジタルコンピュータがモデルで、通常の古典的表象主義

であるとの説明をしました。


先生・著者は、新しい力学系的認知観の考え方を推進していこうとされます。



本日は、この力学系的認知観、表象をコネコネとこね回します。


まず、ベクテル氏を登場させます。ベクレル氏の事はよくわかりません、が。

ベクテルは、ワットの調速機が表象を含まないというヴァン・ゲルダーの言い分は間違っていると主張する。腕の角度は、蒸気機関の速度を表象しているのだ。

と、彼の主張を引用します。

彼は、調速機に、表象を含む、含まないかを、重要なポイントと見ています。


さらに、ベクテル氏は

ある系が表象を含んでいると言えるためには、


表象の対象、

対象の代役としての(内的)表象、

表象の使用者(消費者)


という三項が必要である。とりわけ表象の消費者は不可欠の構成要素である。」と主張します。表象の解釈を多少深く考察しています。


具体例として、この三項にワットの調速機を当てはめてみると

表象の対象は“回転軸の速度”

表象の代役は“腕の開き角度”

表象の使用者は“回転の速度を制御している絞り弁”

となります。

この考え方でいくと、確かにワットの調速機も“表象の操作をしていること”になると言えますし、ベクテル氏の言いたいのは、その点になります。


しかし、著者・先生は

ベクテルの主張する、調速機は表象を含むという論点は、間違いではない。しかし、この解釈は調速機の働きをよりよく理解させてくれるものではない。従って、表象による説明は、もし認知が力学系であるとしたら、認知活動をよりよく理解させてくれるものとは言いがたいという結論になる。

と言います。


つまりは、先生は

ベクテルの言っている事はもっともだが、認知活動の説明には不十分だというのです。



次に登場する役者は折衷論者であるクラーク氏であります。

折衷論とは、ヴァン・ゲルダーとベクテルの考え方の折衷です。つまりはヴァン・ゲルダーの“力学系的認知観”とベクテルの“改訂された表象主義の認知観”の折衷案を提唱します。

この折衷的立場を「最小限のデカルト主義」と言うそうです。

この折衷案で、認知をより完全なものにしようともくろむ訳です。


この考え方は、表象の概念の変更を要求します。

つまり古典的な表象概念「文脈から自由である、離散的である、静的かつ受け身で処理を受けるのを待っている、行為から独立している」と言うような古典的な表象をさけ、

行為志向的表象つまり、例えばロボット内に備えられたナビゲータシステムの地図を例にとって「そこでは地図自体が、地図であると同時に行為を導く制御器の役をはたしているのである」という表象概念を新たに導入します。


この新しい行為思考的表象は、上でベクテル氏が言っている“表象の消費者”という考え方と共通しており、表象自身が志向的な情報まで含んでいる(自分自身で消費できる)という考え方です。


クラーク氏の、最初の主張は

ワットの調速機の認知観には、古典的表象の介入を必要としない

ということです。まずは、です。

さらには、次の主張が必要となります。


弱い表象」と「強い表象」の表象の概念を理解しないといけません。

表象に、新たな駒が出てきました。ややっこしくなってきました。


でも、そこは我慢して

弱い表象」とは、“僕の解釈では”目の前に置かれたリンゴを見て、見た時だけリンゴであると利用できる情報を表象と解釈します。先に述べました対象の代役としての(内的)表象、ではありません。記憶できないその場かぎりの情報でしょうか。見ているときだけのリンゴ、うしろを振り返れば、もう忘れているような表象を「弱い表象」というのです。


一方

強い表象」とは、「環境との物理的結びつきが切れている場合に、その役割をはたす」表象です。たぶん、リンゴが目の前になくても、思い出して出てくるリンゴのことでしょう。


これら、二つの表象を区別しないから、混乱に陥っている」、といいます。


力学系的認知観で必要なのがこのうちの「弱い表象」なのだそうで、

強い表象」が必要とされるのが、「表象渇望問題である」らしいのです。また新しい言葉が出てきました。

この「表象渇望問題」とは、「来年の休暇の計画をたてる、前に住んでいた家の窓を頭の中で数える、暗算をする」のように、環境に対象がない場合の状態でかつ脳が表象を渇望しているというもの。記憶に頼るしかありません。


これが折衷案で、

力学的認知観には強い表象を含まないという点で主張を認めるが、

高次の認知の場合には「強い表象」と呼ばれる行為思考的な表象が必要と主張します。


この折衷案を、さらに完全にするためにエミュレータ概念を導入します。これは「強い表象」を残しながら、「可能なかぎり力学的な要素を残した、まさに折衷的な表象概念である」らしいのです。

高次の認知に必要な「強い表象」を、むりやり力学系に入れ込もうとする方策です。


そこでエミュレーター。(ややこしいです)

エミュレーターとはコンピュータ用語としてよく使われる概念で、「あるOS上で、別のOSを動かしたりするソフト」をエミュレータといいます。

ここでの意味は、「あるものを再現・摸倣する何かべつのもの」としています。


この考え方を脳システムと身体・環境の絡みの中に組み込んで力学系もどきを作り上げようとします。


具体的にこの説明をすると、ますます長くなり大変なので、要点だけわかりやすく説明します。正確性はかけるかもしれませんが、本質は曲げていません。


例えば、腕を伸ばして物をつかもうとすれば、目で対象を見、その対象に腕を伸ばし、誤りなく対象に手を差し伸べるという行為をするためには、神経回路を通る信号のやり取りを考えると、物理的に時間が間に合わないそうです。時間がかかりすぎ(神経回路での伝達スピードが遅い)るのです。

そこで、あらかじめ頭の中に対象物を模倣した環境を用意しておきそこからの信号を用いて時間が遅れるの対策を講じていると考えるのです。

頭の中の環境を模倣した対象物はエミュレートされたもので、これが力学系的なものになるのです。


このエミュレーションされた対象・表象は「最小限のデカルト主義」的な表象なのです。


「このように、クラークらは高次認知をエミュレータ表象で、低次の「根」を力学系で、という一種の分業を提案する」のです。


先生はこれも問題をはらんでいると言われ、この問題は次のブログで説明します。


このように表象主義だけでもすごく複雑に論が展開しているのがわかります。表象主義は勿論これだけではありません。

このような議論は、心の哲学に何をもたらしてくれるのでしょうか。疑問がのこります。


以上のように、非常にコテコテしておりまして、

多くの種類の表象とそれら表象の使われ方に主張があります。

僕は、これは本当に心の哲学なのと疑問に思いました。

そして、心の哲学の根本である“主体”は相変わらず見当たりません。



終わりに、エミュレータの概念を神経系に導入しており、具体的な考察になっていますが、どうして認知機構も同じような具体的説明がないのか、少し不満が残ります。


いずれにせよ、この論文は工学的システム論を展開しているのではないだろうかとの想いが沸いてきました。


残りは、次回に。この論文、何せややこしいですが、次で終わりにします。