昨日に引き続き、今日も“表象なき認知”の、2回目。
いつも思うんですが、この表象って言う言葉、すっきりしません、どうしてこんな曖昧な言葉を使い続けるのでしょうね。いい加減にしてください~。w
今日は、論文に示された「力学的認知観」。この観により、「脳自体を一個の力学系とみなし、現実の脳の活動に即した認知の説明を展開する」のが目的となります。
どのように認知を説明していただけるのでしょうか、楽しみです。ここでの認知と言うのは、辞書などに書かれている、“外界の認識”でいいのか説明がありませんが、常識的にこの辞書の意味で以下進めます。
先生(著者)は、従来の表象を使った説明を、表象主義的認知観・計算主義とし、力学系との具体的な対比として
計算主義にはデジタルコンピュータを
力学系にはワットの調速機をそれぞれ認知モデルにしています。
私はこれらの認知モデルで認知が達成できるとは全く思えません。
当たり前です、前回述べましたように、認知の主体が抜けているからです。主体を捉えていない認知は少なくとも心の哲学では考えられません。
それ以前に“デジタルコンピュータ”そして“調速機”が認知をおこなっているのでしょうか、それとも認知を行なえるポテンシャル・能力を秘めた何かがあるのでしょうか、
大きく疑問に感じます。
でもそれを言うと、話が止まってしまうので、蓋をして先に進みましょう。先生は先生なりに、認知モデルとして納得されているはずですから。
我々は、どの点で納得されているのかを見極めないと、この論文を読み解けません。
まず
デジタルコンピュータの表象とは内部メモリーにて、定義されるビット列と考えていいのでしょう。例えばリンゴを認識した時に立てるビット・フラッグです。“このビットが立てばリンゴを認識したよ”とか。
このビットは、イメージ的には静的な感じがします。ダイナミックではありません。固定のビットになるからです。その点をとらまえて表象主義的認知観に対し「現実の時間を通じて展開すると言う側面が、十分反映されていない」という評価になるのです。
現実は、情報はしょっちゅう変化しているから、静的ビットでは困るという理屈です。
しかし、この理屈は、コンピュータを知らない人の理屈であって、実は実行させるプログラムを上手に作れば、実時間対応はなんでもないことです。最近は高速で大容量のコンピュータも出来上がっているのですから。プログラムにより、ダイナミックな表象も可能です。
さらにワットの調速機の件
私は高校生の時だったと思うが“ワット氏ガバナー”として回転速度の一定化を狙う機構を見せてもらったし、教えてもらいました。回転軸に振り子を持たせた機械であったと記憶しています。
また、大学の時には、負帰還理論を制御系の授業時、習いました。その時は高利得増幅回路のマイナス入力側に出力信号を戻すように入力することにより。一定の安定した、増幅器が出来上がること、
反対に、プラス入力端に信号を戻すと発信機になる事などを勉強しました。前者を負帰還、後者を正帰還といいます。
この考え方を制御系に応用し、目的の値に落ち着くようにシステムを設定できるのです。
目的値と入力値の違いを検出し、その差(エラー)を少なくなるようにするシステムです。バイメタルもワットの調速機も、同じような理屈で働きます。
このように、僕でも大方の情報理論は勉強しました。
この理屈は、デジタルコンピュータを使っても利用できます。多分市販のエアコンなどの制御は、内臓マイコンでやっているはずです。
上に示された認知モデルの違いは、なくなります。
デジタルコンピュータも調速機もデジタルコンピュータの範疇に含まれてしまいます。
話がそれますが、
制御理論の開拓者である、アメリカのノーバート・ウィーナー博士が言っています。老人が針の穴に糸を通す時手が震えます。これは目的の針穴に手で糸を導くのに丁度いい位置の穴に行かず、行きすぎ、又戻す時にも戻しすぎ、結果手が震える。これは帰還がマイナスからプラスになり、発振していると。正帰還ループが体内に出来上がったと。
人間が情報システムであることの一つの証拠でしょうか。
それはそうと、話を戻して。
ワットの調速機、
回転軸についている二本の腕が軸の回転スピードが上がると開き、スピードが落ちると腕がせばまるという現象を利用し、
腕が広がるとスピードが落ちるようにエネルギーを絞り、
反対に回転が落ちるとエネルギーが多く供給できるような構造にして、
一定の回転スピードを保つような機構にしてあるのです。
本論文ではこの回転速度を一定にするための、信号の流れをカップリングと呼んでいます。制御工学では帰還ループと言っています。
この調速機は確かに力学系システムです。でもこのシステムのどこが認知機能を持っているのか不明です。調速機は外界の何を認識するのでしょうか。
この点に関しての説明がありません。
その代わり論文は、
この調速機が表象処理装置かどうかの議論に移ります。腕の角度が速度を表象しているかどうかの議論です。
この議論の源はヴァン・ゲルダーという人の理論だそうで、彼によると、この装置は単なる表象装置ではなく、表象関係よりもさらに精妙な関係を持った装置だそうです。“さらに精妙な関係”その物が認知なのでしょうか。
【私が考えるに、そんなのは言葉遊びをしているだけで、本質の議論ではないと思われるのです。表象しているかどうかは定義の問題になりはしないかと考えられるのですが。
そうでないのでしょうか、何か隠された、私にはわかっていないものがあるのか。例えば表象すれば認知しているとか。それならそれで、その説明くらいあっても言いと思いますが。】
さらに、「この調速機が表象を操作していないから、そして調速機は力学系のモデルケースであるから、認知は表象の操作でないという主張に通じるのである。」と書かれてあるのです。
調速機の説明は書いてあるのですが、その調速機と認知活動の関連が全く書かれていません。これだけで「認知は表象の操作でない」というのは、どういう事でしょう。説明放棄しているのではないのかと疑われても仕方がありません。
反対に“認知は表象の操作である”というのにも、納得出来ません。認知はそのような単純なもので表現出来るとは考えられないからです。
いずれにせよ、認知とは、この力学系でどのような位置にあるのかがわからないのです。
【ひょっとすると、従来の表象主義者は“認知は表象の操作である”との主張をしている、のが常識的な見方であり、私はこのことを知らないばかりに、先生の主張を充分理解出来ていなかったのかもしれません。】
しかし、その後で「すでに述べたように、力学系においては、その要素が互いに同時的に相互作用しあうのであるが、認知場面では、脳・身体・環境の三者が、この相互作用しあう系の側面に当たる。このような、脳・身体・環境の三者の緊密な相互作用は、力学系理論では「カップリング」という独特の概念で捉えられる。」と書いてあります。
あとで、こっそりと理由を付け加えた感がしますが、
この文章も何か変です。
認知場面が、「脳、身体、環境」の三者の相互作用の系の側面
三者の緊密な相互作用がカップリング
であるとのこと。
言いたいところを簡単に言えば、
認知とは脳、身体、環境の相互作用を時間軸で捉えた関係と言っているのです。あまりにも単純な見方です。こんなのが論文になるのでしょうか。
そして、この単純な見方に対し、なにも力学系とかカップリングとか引っ張りまわす必要はないと思いますし、さらに、表象しているしていないも関係ありません。
これらの主張は全てヴァン・ゲルダーという人が主張している理論で、この論文の著者の主張とは違います。でも。
この理論をどのように料理しようと意図されているのか、どこに持っていこうとされているのか。
先生・著者はさらに言います。
「脳、身体、環境の三者を一つの系とみなし、環境と身体の間に表象を置かないと言う点で身体化された認知と呼ばれます。」と。
認知をどのように捉えているのか。三者を一つの系として見ることなのか。
その後、ここで
「そもそも「表象」とは何であろうか」と今になって初めて、キーワードの説明を開始します。
それは
「ホークランドという人は、ある系が表象を含むと見なされる要件」は
「まず、環境の特徴が「たしかにそこにあるとはかぎらなくても」、系が自らの振る舞いを調整できること、次にその調整は環境からの直接的信号の「代役」によって行われること、この二つである」といわれます。
新しくホークランドという人を登場させ、表象を説明させます。
現実に物がなくともあたかもそこにあるかのごとく振る舞える「代役」があれば、系に表象が含まれることになると言います。
定義とは程遠い説明で納得します。
これは、記憶のことですよね。
長くなりました、
力学系の認知論及び表象、わかりましたか?
書かれてある事はわかりましたが、それじゃそれで何がポイントなのかが見えてきません、残念です。
でも私なりの解釈では、
力学系の認知とは、ただ脳、身体、環境の三者の密着した相互関係・時間的経過を含んだ情報の展開そのものと考えます。
従来の表象主義者の主張である、表象(記憶)の操作が認知であったように。
“表象”または“密着した相互関係”が認知であるのような話になっています。
この話はすごく単純な、説明にもなっていない結果です。
これが今日のブログの結論です。
筆者にとって細かい事はどうでもいいのです、
詳細な構造説明、メカニズム、主体などは無視し、
ただどのように信号・情報が流れておれば、外界認識が可能か、だけを議論しているようです。
でも、何度も言うようですが、認知はこんなに簡単なものではありませんよね。このような議論に何か成果が実るのでしょうか。
初めに示された、「数学的道具を認知系に適用し、認知を解明しようとする試み」はどこに行ってしまったのか。物理的展開を基にした力学系を期待して読む論文ではありません。