今まで色々と脳関係の本等を読み、分かった事は、

意識追究には2つ(以上)の追究法があり、


一つは意識発生のメカニズム追究、この範疇には認識、記憶、判断、自己、等の神経学的メカニズム論が含まれ、

もう一つは意識関係の振る舞い論、この範疇には行動理論、心の心理学的追究、私とは何か論等で意識・心の観察論です。


つまり、例えが適当かどうか分かりませんが、

自動車の構造、エンジンを担当するメカ屋さんと

自動車の運転を行なうドライバーの違いとでも言えそうです。

お互いに協力しあってサーキットレーシングを行なうのです。




それで哲学屋さんのメカニズム追及の論文をスタディーします。

「シリーズ 心の哲学Ⅱ ロボット篇」 信原幸弘編 勁草書房 2004年

にある

「心はどんなコンピュータなのか」  戸田山和久

と言う論文を読みます。戸田山先生は名古屋大学大学院教授だそうです。


この論文は

「心はどんな計算機か」でいわゆる「心の計算主義」に関する論文です。

計算主義は、心の入出力でなく、内部メカ二ズムに目を向けさせる」と脳を情報処理機として捉えようとします。


私などは、

脳を情報処理機として捉えるのは大賛成なのですが、脳を内部メカニズムだけでなく、入出力をも含めた全体システムとして捉えないと、十分把握できかねると考えます。

以前のブログにも述べましたように、脳システムは外界環境と一体になって進化したものと考えられますし、システムとして独立するためには外界との関係性がなければシステムとして成り立たないからです。

従って脳システムだけを取り出してとやかく言うのは、方手落ちの観をぬぐえません。

でも、いずれにしても、論文がそうなっているのだから、内容を追っかけていきます。



「計算主義」は20世紀初頭の心理学行動主義の反省から出てきたもので、

行動主義の心をブラックボックスと見なして研究する態度に胡散臭さを感じ出来上がりました。

上の、エンジンの中身まで調べようとする態度です。



そこで、このほんにある計算主義の基本的な考え方は

①、心は形式システム(formal system)である

②、統語論的構造を持つ表象があり、それはある規則にのっとって変化したり合成されたりするもので、ある規則とは表象がもつ統語論的構造に依存して決まる。

らしいのです。


哲学者の表現は非常にわかりにくい表現を使われます。

それは、伝えたい内容が誤りなく受け手に渡るよう

言葉の使用も厳密に、構文も厳密にするからで、

かつ特別な専門的な言葉を多用されます。

しかし、私などの読み手は、無理に複雑な文体構成と不用意な語句を使用しているとしか考えられない表現にぶつかり、面食らってしまいます。


たとえば、戸田山先生の「心が形式システムである」の形式システムの説明文は以下の通りで、

形式システムとは、離散的なアイテムをその形式的な性質に言及した規則に従って操作することで計算を進めるシステムのことだ。

とありますが、分かりますか?

この前後に具体的な説明があればいいのですが、形式論理学をその具体例とし、もって来られていますが、分かりにくいのです。


離散的と言う言葉はシステム論で使われることばで連続的・アナログに対応したものです。

形式的というのは、論理数学で使われる言葉で、なにも考えず決められた事を実行するという事です。

これらから私が上の文章を解釈すれば

「形式システムとは、決められたルールを使い信号を処理する事により、目的を達成するシステム」となります。


さらに分かりにくいのが認知関数(cognitive function,

認知システム(心)が計算する関数(掛け算のようなもの)は、認知関数と呼ばれる。そして認知システムは、この認知関数を表象を操作することによって計算する

とあります。最後の文の「認知関数を表象を操作する」と言う意味が分かりません。誤植でしょうか?それとも句点の位置がおかしいのでしょうか?


この文の意味は多分「表象を操作することによって認知関数を計算する」と言いたかったのでしょう。

表象を操作するということの具体的説明が無いのですが、

多分“特定の神経活動パターンが、神経活動と特別な神経接続により、時間経過とともに変化を受ける”と言いたかったのでしょうか。神経活動パターンが表象になります。


何せ分かりにくい、独善的な文章です。文章が分かりにくいのは、ゆっくり読めばいいのでしょうが、多分書いている当人もわかっていなくて書いているような文章は読めません。分からないところは、適当に理解して先に進まざるを得ません。


そんなや、こんなで、先生は

古典的計算主義(従来型の計算機)を否定され、

コネクショニズム(ニューロコンピュータ)を擁護されます。


擁護の仕方が、本論文のメインなのですが、私などは、

脳の構成を見れば(他の教科書的書物で)、

明らかに脳は従来型計算機構成でないのは明らかで、

まだニューロコンピュータ的なほうがましだと分かります。


しかしそれでも、ニューロコンピュータが新しく心の概念を表せるものであるなど、とても考えられません。

あまりにも、現在あるニューロコンピュータは幼稚すぎますし、

心をそのような構造で表そうなんてのは100年早いと言われそうだと思います。


例えば、脳内でリンゴと認識できたとします。

それは、認識できたということにいたるまでの、膨大な情報処理を全く無視た表現であまりにも認識という言葉を軽んじています。

つまり、認識に到るまで、どのような信号が、どこにながれ、どの他の信号とからみあって、それが最終どのように消えていくのか、

強烈に複雑な処理が入っています。その処理の概略だけでも把握してから、心の神経モデルを立てなければいけないのです


従って、この論文で書かれてある事は、あまりにも問題を簡略化しすぎており、主張している事が根拠のない“たわごと”のように読み取れます。



先生もそのような感を持たれているのか

哲学者はつい、思考の言語仮説は認知理論であるための必須条件であるとか、・・・ほんらい経験的仮説であるはずのものを、ア・プリオリな要請へと「昇格」させたがる。しかし、このような昇格にはあまり根拠がない

といわれます。

仮説を根拠あるものと見なして議論を進めてしまっていることに対し、反省をうながしておられます。


私も同意見で、まず神経活動の物理的観察があっての、仮説としなければなりません。すくなくとも現在得られている脳の知識を十分勉強してからの議論としなければいけません。


そして先生は最後に

哲学者が行なうべき事は他にもある。たとえばラディカルなコネクショニズムは、まださまざまな着想の寄せ集めにすぎない非常に弱い経験的仮説だ。これをより首尾一貫したものにし、その弱点を明らかにし、今後取り組むべき問題を明示する手伝いをすること、これも哲学者にとってやりがいのある課題ではないだろうか。

と控えめに言われています。


やはり、車を理解しようとすれば、エンジンの構造を・パワーの伝わり方を、・・・・など、具体的アプローチが欠かせません。哲学者も机上から実験室へいく時代になったのです。