今日は週末、ウイークエンド、昔のはなきん、ありましたよね。

帰りに、スーパーによって買い物をして、おかずを作ろう。

野菜が不足しないように。

そう、がんばる。



それじゃ。

「純粋理性批判」の序文でカントは次のように述べているそうです。

これまでは人は、すべて私たちの認識は対象に従わなければならないと想定した。しかし、こうして私たちの認識を拡張しようとする試みはすべて潰え去ったのである。そこで、対象が私たちの認識に従わなければならないと私たちが想定することで、もっとうまくゆかないかどうかを、一度試してみたらどうだろう


上の訳は「カント『純粋理性批判』入門」 黒崎政男 講談社から引用させて頂きました。


このカントの考えを、今回我々が行なっている表象の考察の一環にいれて一度試してみます。カントの考えた事と、私が考えた事(おこがましいですが)の違いを見ようということです。



まず初めに、外界・物理世界の認識がどうなっているかを考えます。

通常、物理世界・外界から、エネルギーパターン・物理パターンである信号群が感覚器を通し、脳神経システムに到着します。脳神経システムはその入力信号に対応した活動を始めます。脳構造により物理活動として。この活動は、自分が生き抜くため必要な物理傾向を進化の過程で獲得した結果に基づいて実行しています。

言葉を変え言いますと、これらの活動は完全な自然現象ですが、進化の圧力のかかった脳神経系の構造により、エネルギーの流れ、信号・情報の流れが特別なものになっており、

そこに生命活動が現われてきます。


そして、その情報の流れの中で脳神経システムに認識・意識が生まれてきます。意識が創立されるのです。前回のとおりです。

意識は情報自身が立ち上がったものであると言うのも、前回書きました。

そして、その情報は、情報自身に自覚が付属したものそれがひとり立ちすることによって意識・認識が生まれます。

つまり、私が対象を認識しているという情報が脳神経システム内に立ち現れるのです。対象を認識する場合に、対象だけが表象されるのでなく、対象を見ているわたしも付属して表象されていないといけません。

ここがポイントです。


この意識は、全体的に見ると、脳神経系システム自身が独自に自分の世界を創り、外界に対応させ、その対応が満足であるという条件のもとたち現れます。脳システム全体の活動の中、自分自身が作り上げた世界内で矛盾が無ければ、それが実存する外界であると認識しているのです。

結局、脳神経系システムが自然物理現象のエネルギーの流れの中に、情報世界として自分にあった都合のいい脳内情報世界をかってにつくりあげ、それが実存する現実の世界だと認識していると考えられます。自分自身のルール(なるようにしかならない自然のルール)で情報世界が出来上がります。


すると、対象を認識すると言うの事は、自分の都合のいいように作り上げた情報世界の意味その物となりますよね。



このような認識論は、カントのいう認識論と一致するでしょうか。


カントは

認識が対象に従うのでなく

対象が認識に従う。


私の上記の認識論によると

認識は外界の仕組みに関係なく自分で納得のいくように作り上げています。矛盾なく外界と対応していればいい。

しかも、その“作り”は、外界を含めた脳神経系システムの物理的なエネルギーの流れに従がったものであれば、どう作られてあってもいいのです。


脳内情報世界の情報は現実世界とは次元が異なります。意識と物理世界との間では物理的なやり取りは不可能です。物理パターンから湧き上がるイメージです。

従って、湧き上がったもの(意識)がどの様なものであってもいいのです。

物理的パターンが意識を作り上げるにしても、出来上がった意識は物理的パターン(脳内情報)とは直接関係ありません。


すると認識が対象より創られると考えるより

認識が対象を創ると考えたほうが、すっきりします。


つまり認識一般は、今わたしが現に認識している内容でなくてもいいのです。どの様なものでもいいのです。

ただ、たまたま今の認識世界が自分に矛盾なく理解でき、私の生存に支障がないからその認識方法を採用していると考えられるのです。

認識の世界・情報世界・意識世界は脳システムが脳内物理パターンの流れの中で矛盾のない世界を作り上げているだけなのです