寒い日が続いています。

今年のヨーロッパは特に寒かったみたいですね。

地球温暖化じゃなく、地球寒冷化なのだろうか。

氷河、北極の氷はどうなってるのだろう。

太陽黒点も増えてるって聞くし。


温暖化が世界の趨勢ですが、

寒冷化もまんざら棄てたものじゃないかも知れません。


事実はどちらか、一つだけど、

つまり、どちらに転ぶか待っていればわかるけど、


今将来を予測して行動に移さないといけない、

ということで、全世界を巻き込んだCO2騒動が華やかです。


温暖化が正解であれば

うれしいような、怖いような

これが正解でないと困ります。


もし寒冷化が正解なら

世界中で大笑いの渦が期待されます。

エコポイントなんて、なんだったんでしょうね?

などは笑い話ですが、

産業構造まで変えてCO2-25%は笑えません。


このように、茶化すのは良くないでしょうか?

でも、科学なんて所詮くじ引きと同じで、蓋を開けないとわかりません。

そこが面白いところだけれど。


だったら、本気だして将来予測すべきでしょう。

でも、”本気出してるよ”と言うのだったら、

そして今がその現状なら寂しいかぎりです。


日本では気候の将来予測の話、あまり聞きません。

新聞TVもなんか、避けている感じ。

国も予算をつけて、本格的にやっているような話聞きません。

(私が知らないだけだったら、ごめんなさい)


新聞TVが、変に焚きつけると収拾がつかなくなるから、

報道を控えているとか、うがった解釈をしてしまいます。


でもまた、国際会議が日本で開催されるのでしたよね。





今日は表象の極めつけ。

意識と表象


表象は色々な意味、表現がありますから一概に言えませんがとりあえず、「一般的な定義では何かの代理として記号表現が機能すること。記号表現が何かを代行すること。」とします。前回通りです。


コンピュータ内においてはビット表現で外界を表象できます。例えばリンゴを、あるビット列で表現できるのです。

するとそのビット列が存在すれば、リンゴが表象されると言う理屈が成立します。

コンピュータ内の認識結果はこのように蓄えられ表象されます。


一方、人間の表象もそのように考えられるでしょうか。

そうではありませんでした、前回に述べたとおりです。表象は体全体に分散され存在しているのだと。

また、ビット列のような静的パターンじゃなく、時間変化をもった、ダイナミックパターンになっていそうです。


このように、表象方法が異なるとして、

脳内に(体全体の中に)パターンとして表象されたのが存在するとして、それでリンゴが意識されるでしょうか。

つまり、リンゴを見て脳内に(体全体の中に)パターンとして表象された信号パターンが情報として存在したとして、それだけで意識としてリンゴが浮かんでくるでしょうか。


解答として私が考えるに、

この状況では意識にならないと考えます。理由は簡単、その情報は意識のある情報ではないからです。その情報は私と言う情報が欠けているからなのです。

意識が出来上がるためには、だれが考えてもわかる事ですが、情報に意識がついていないといけないのです、情報にわたしがついていないといけないのです。

それはどういう意味かと言いますと。


“リンゴ”という表象ではなく、

“私がリンゴを認識しています”と言う表象で無いといけないのです。



情報に私を付随させないと意識・クオリアになりません。

情報にわたしが付いて初めてその情報が、ひとり立ちできる、

次元の異なる情報の意味が立ち上がれる、

情報の意味が創立され意識になれるのです。


この場合の私は再帰的な・メタ的な私でないのはもちろんで、

昆虫レベルでも持てる、(私と言う概念じゃない、)私以前のクオリアを感じ取れるだけの私・前自己という概念が必要です。


この前自己の集まりが全自己になり、この全・前自己が進化の圧力で私に代わっていくのです。(ここでの私は当然無矛盾な私であります)


以上の前提で心身論(意識とは何か論)を進めていくとすれば、心理学者とか哲学者の方法は、的をはずしているように思われます。


つまり、心理学者・哲学者的意識追求は

“意識とはどの様にはたらくのか”

“意識とは人間にとってどのような意味があるのか”

のように、一歩引いた眼で追究されているようで

“意識とはどの様なメカニズムで発生されるのか”

という直接的なアプローチに欠けているように感じられます。


情報の中に“前自己、クオリアを感じる私を組み込める、神経パターンを見つける事が大事なことになります。

あくまでも現実の神経パターンを問題にする必要があるのです。