今晩は“宵えびす”です。
寒いけど、行ってみようと思ってる。
今宮へは、時々行くんですけど、
えべっさんの“がんじき”とか“きっちょ”など買った事ありません。
何か、怪しい雰囲気があるのと、
あまりにも、僕にとっては、高いのです。
買わないと、ご利益がないかも知れないけれど、
行くだけでも許してくれそうな、
そして何より楽しいです。
写真も撮ります。
さぁて、今日は、前回の補足(生命体の表象)です。
あまりにも、常識的な事だから面白くない人もいらっしゃるかも知れませんが、
そうであれば、ごめんなさい。
人工システムと生命体内の表象機能はまったく異なっていると書きました。
人工システムはそのシステムを管理する、高い層からの眼を持った人が表象を理解します。
生命体システムはその生命体自身がその表象を理解しているようにふるまいます。
(本当に生命体自身が理解しているかどうかは不明・これが大問題ですが、今はそうとしておきますね。)
今日はその体内神経表象パターンについて、生命体の表象を議論するため、ヒトの脳で論を進めていきます。
以前のブログでコネクショニズムと表象について書いたことがありましたが、その関連になります。
ヒトは環境のなかで生活・活動を行ないます。ギブソンの言うとおりです。いやギブソンでなくても誰でもそう言いますよね。
ヒトは外界から多くの情報・信号を感覚器を通して受け取ります。
ヒトは“入力信号”と、“脳内の記憶信号”また“自身が持っている神経構造のよる癖”により神経系に特別な神経パターンを作ります。それにより筋肉活動が決められます。
これが、ヒトが行動する基本構造になります。
脳内神経パターンは、外界状況により決定され、表象となりその意味は入力信号、神経系の構造、出力筋肉信号の組合せで決まり、また意味そのものが生まれる(創成される)とします。
以前述べたとおりです。
すると、入力信号を考えて見ましょう。
入力信号と一言で書きましたが、当然なことに複雑怪奇なほど膨大な量の情報量になります。体・脳・神経系に入ってくる情報ですから想像を絶する量になるでしょう。
コンピュータが扱う情報と質・量とも各段に違います。
“リンゴを見てリンゴだな、食べてみよう”の場合、入力信号から、リンゴを食べるまでの行動に到るまでの情報・信号の流れは想像を絶するほどの複雑さがある事は、誰でも感じることでしょう。
と言うのは、“リンゴを見て”と一言で表現している事も実は、この見るリンゴも、見る場所、見る位置、見る時間、等の状況により入力信号は変わるし、お腹がすいた状態なのか、明日の仕事が気になっている状態なのか、財布にお金があまりなくこれからの生活をどうしようかとか・・・・と数え切れないその他の情報が入ってくるということですから。
これら情報は全て生命維持のために必要です。また扱っている情報もアナログ的なもので、中間の情報が存在するのは、意識を確認すれば納得できますよね。
すると見ているリンゴがリンゴである表象パターンは一筋縄で語れるものでは無いと思われるでしょう?
もし、リンゴという表象が脳内に存在するとして、ですけれど。
コンピュータ内部では基本的には、プログラムに依存し、少数のビットで表されます。単純です、だから表象は明らかです。
一方、脳内では、そういう訳にはいきません。
そもそもリンゴと言う独立した表象がないのではないか、あってもその表象は色々な条件がぶら下がった、例えば、青いりんご、表面がピカピカひかった物、形がいびつな物、さわった感触が硬い・・・・・などを考えると、リンゴという独立した表象を脳内に見つけるのはかなり困難じゃないでしょうか。
おなじリンゴでもさまざまな違う表象があるかも知れません。
それに、以前の経験の情報も加わり、お腹の状態も加わり、食べようと行動を起こす意志を発生させ、実際に食する行動を行なうとなると、脳内神経パターンはかなり広がったパターンになっていると考えられます。ひょっとすると脳だけでなく、体全体の神経パターンも関係していてもおかしくはありません。
そら、そうでしょう、あれだけ情報の量が多く、質も形も違うものが、アナログ的に入ってきて、外界とちゃんと対応できる形に(物理的に)なっていないといけないのですから。
先回、心臓移植を経験された人の話がありましたよね。食べ物の好みがドナーの好みに変わった、と言う話でした。
さもありなんと考えられます。納得出来ます。
多分、脳内表象パターンは脳を中心とした神経系で、
体全体に広がっているのではないかと。
ちょうど、例えが悪いですが、ホログラムのように情報が全体に広がっているようなイメージです。
ホログラムは一部の情報がかけても、大勢には問題がないとか、一部だけの情報でも全体が見渡せるのです。