前回は生命の重さ(質量)についてのブログを書きました。多少“あぶない科学”であったかも知れません。
しかし、科学は“何でもあり”が基本ですから、霊に質量が付随していても、それが実証されれば、だれも何のクレームもつけませんし、
大発見であれば、追試が行なわれ黒白がつけられます。
かつての、低温核融合の例の如くです。
だけど、前回の生命の質量について、この業界が反応を示さなかったのは、
本当に、相手にする価値がないから無視し、追試も行なわれなかったのでしょうか。
追試した人がいてても、恥ずかしいから結果を発表しなかったのでしょうか。
そこで、今日は心が内臓にあるという主張の本、この主張も脳科学の業界においては異色の仮説です。
その本
「内臓が生みだす心」 西原克成 NHKブックス 2002年
を紹介します。
西原先生は東京大学の医学博士で日本免疫病治療研究会会長、西原研究所所長です。
まず、先生の基本スタンスは
「「心のありかをさぐる」研究は生命科学の中で最も難しい難問であり、
そのためには生命とは何かをまず正しく理解し、
進化がどの様な法則によって起こっているかがはっきりとわかっていなければならないと、」主張されます。正論です。
そして、
「心や精神はある特定の臓器の持つ機能である事は間違いないことだ」と言われ、さらに
「体温や声や呼吸運動や筋肉運動と同様の質量のないエネルギーである」と。
このあたり、特に後者の“心が体温や声と同様である”とはどういうことかの詳しい説明がほしいところです。
次に、先生はこれらの仮説の具体的な突破口を、心肺同時移植手術に見つけたのです。
この「手術の手記「記憶する心臓」には心臓と肺臓を同時に移植されたクレア・シルビアの心が、ドナーの若い心に替わってしまった」ことが報告されているそうです。
この手記には、ドナーの性格等が移植された側に移動したような実例が書かれてあるようです。
つまり西原先生は心臓と肺臓が心を宿す器官であると強いインスピレーションを持たれたのでしょうね。
私などは、一個の実例として捉え心臓と肺臓が心を宿す器官であるとは信じませんけど。
そして、先生は丁度その時
「サメを使った系統発生の進化の研究でも、顔の筋肉と舌筋と心肺は一体となった鰓器に由来する腸管内臓系で、ここに心が宿ることを明らかにしたちょうどその時」であったかのです。タイミングよく先生も色々な実験で同様な感覚を持たれたのでしょう。
ここではまだ、その機構、理屈は書かれていませんが腸管内臓系で、ここに心が宿ることが明らかにされたのです。
その理屈・理由的なことが以降に少し書かれてありまして
「心も精神も思考も思いもすべては、体温と同じ質量のない生命エネルギーであること」
「心のありかと思われる器官を取り除いて・・・・大脳皮質を全部そぎ落とされたり、脳幹が切られたり・・・動物の受難の時代があり・・・それでわかった事は、どうやら心のありかは脳をいくらいじってもわからないということ」
また、ウズラとひよこの脳や神経堤というものを交換移植しキメラを作ったり、メクラウナギの脳とサメの脳をイモリとラットの脳に移植し活動を観察しても、行動様式はまったく変化することなく平然と普通に生きていたという事です。
つまり
「ウズラの脳を持つヒヨコも当然ニワトリの鳴き声しか出しません。つまり心のありかはペンフィールドの言う通り本当に脳にはないのです。」
という結論です。
心は脳に無いのです。
さらに先生は
「食べ物の好みは、もとより腸の粘膜の上皮細胞の吸収の傾向性を意味します。
眼は鰓の呼吸用の腸に付属するパラニューロンで腸管の好き嫌いに従って筋肉にその情報を伝える仕組みです。
生命体にとっては、質量のある物質の腸管粘膜からの吸収も質量のないエネルギーの腸付属器官(眼)からの吸収も完全に等しいのです。
たとえば前者は酸素や栄養分、後者は光です。」
と先生専門の知識をここに応用されます。
さらに、
「高等生命は、腸がなければ生命がありえ無いのです、生命の本質(心・魂)はやはり腸にあるのです。そしてこの腸管上皮に備わった神経が、腸管の内腔と腸管の内臓平滑筋の状況を身体の皮膚の筋肉(体壁筋肉)に知らせるのです。つまり腸が感じて、体の筋肉がその望む方向に動くのです。」
そして仮説はさらに発展し
「生命は腸から生まれますから、常に腸管の内腔のありようによってからだの状態が決まります。腸の要求に従って身体の筋肉を使って移動するのが動物の特徴です。どうやらこの腸の筋肉の動きのありよう、つまり腸の望みが心や魂ということらしいのです。」
という事になり、
心は脳でなく腸にあるという主張です。
確かに、これら議論に飛躍があり、論理的連続性がなく、独断的な思い切りがあるので、多くの支持派受けられないでしょう。
それが異色の異色たる所以でしょうが、
しかし先生は、なぜこの仮説が受け入れられないかの見方が披露されまして
「何よりも今のアメリカ医学の困る事は、生命の本質の心や魂が腸管内臓系の五臓六腑に存在するとなれば、心臓が生きていても脳の機能が止まっていれば脳死、つまりヒトとしての死とする臓器移植の条件がご破算になってしまうことです。」
この見方はうがちすぎでしょうか。
最後ですが、この本には著者の思い・気迫・恨みが感じられます。
「大学院に入ったころは、ちょうど大学紛争が東大の医学部から始まってときで、この紛争に巻き込まれて、学者コースが大きくそれ、・・・上司に恵まれずに、それからの三十年間は一度も昇進することなく定年を迎え」
たのです。
なんとなくわかるでしょう。