今日は、新しい年を迎えるため
部屋の掃除をしました。
平生は、休みのときしかしないので
隅っことか、裏なんかには手が回らなかったのですが、
今日は、みんなきれいになりました
それで、買い物は、いつでも出来るから
明日かあさってに、多くの人が、たくさん集まる買い物風景を観賞しながら、
黒門市場でも行ってみようかな。
僕には、たいして必要なのは無いのです、
野菜と、肉と、お餅くらいは買います。
あっ、そうそうお酒はもちろんのことw。
さて、
きょうは、クオリアを持っている動物はどこまでか
という話。
多くの人は、犬も猫も小鳥もクオリアをもっていると考えていますよね。
特に、ペットを飼っている人は、間違いなく彼らがクオリアを持っていると確信しているでしょう。
痛いときは痛い、お腹がすいたときは、おなかがすいた
喉が渇けば、お水が飲みたい、
今日は明るく、いい気持ちだ
などなど。
でも、そうでない人もいるのです。
当然ですが、世の中にはいるのです。
私が見つけたその人は
インド出身のアメリカの精神科医のラマチャンドラン博士です。
博士は、「脳の中の幽霊」とかの著書とか、
phantom limb pain(幻肢痛)を鏡箱で治療したことで有名です。
http://en.wikipedia.org/wiki/Vilayanur_S._Ramachandran
その博士が言いますに
「思い切った主張をしましょう。まず私は動物に意識やクオリアはないと考えます。」と。
この発言は
「意識を語る」 スーザン・ブラックモア 山形他訳 NTT出版 2009年
という、スーザン・ブラックモアと高名な脳科学者の対話集にあります。
スーザン・ブラックモアはさらに突っ込んで
「ではあなたの意見を論理的に追っていきましょう」。牛が屠殺されるとします。一瞬で殺すことも出来れば、人間だったらとても苦しむようなやり方でじわじわ殺すことも出来る。これはおかまい無しですか?」
と少しいじわるをこめて質問します。
当然博士は否定しますが、
「「ウイルスは本当に生きている?」問題にやはり少し似ています。
言葉尻にこだわって気を散らされたくはありませんね。哺乳類として我々は特定の行動パターンに共感するから、牛にもクオリアがあるから苦しめてはいけないとあなたは思ったのでしょう。」
博士のウイルス発言は、
ウイルスが生命体であるか、無生物であるかの論争に引っ掛けています。
クオリアの有無も同じような論点を持っていると考えられていまして、
「倫理に関わりだしてどの時点で胎児が意識を持つか尋ねはじめると、殺人かただの中絶かと言う話になって・・・・」
と博士自身が自分で話を大きくし、詰まってしまいます。
この論理をさらに追っかけていくと、昆虫も植物も原生動物も殺す事は許されないはずです。
このあたりの、博士の意見は聞けませんでしたが、こうなると思います。
昆虫にクオリアがあるかどうかには論点が見つけられますが、
植物にクオリアがあるかどうかに論点はあるでしょうか。
私には、何もいえません。不明なので口をつぐむだけです。
すると、
どこで線引きをするのが妥当なのかの論争が起こりそうです。
つまり、
どこまでの生命体にクオリアがあるとするのか。
クオリアがある生命体を殺す場合とそうでない生命体を殺す場合とで区別するべきかどうか。
のふたつの問題が絡んできます。
このあたりは科学的事実が不明なのと、個人の感性が絡んでややっこしくなるのです。
いずれにせよ、意見は百花繚乱の如くあり、議論はつきませんが、
私は、植物にも何らかの意識的な現象があると、信じていますので、
むやみな殺生を嫌います。
でも、博士が言う大事な事は、
科学的事実と、倫理問題をわけて考えないといけないと。
牛にクオリアがなくても、牛をじわじわと殺すことが許されないと。
いわれます。
ひるがえって、博士が“人間にしかクオリアがないであろう”とされた根拠として
「私はクオリア問題と自己問題はまちがって二分されたと考えています。この二つは何と言うかコインの裏表なのです。言い換えれば、自己というものがなければクオリアもない―――とても荒っぽい言い方をすれば、わからないからです。」
と言われています。
自己というものがなければクオリアがないという主張です。牛には自己が無いのです。
でも私はそうでないと思います。クオリアには最初から自己が引っ付いていると考えています。
この自己は当然メタ自己ではありませんし自分自身を振り返って考えられる自己ではありません。
ただ、痛いときには痛いと感じている自分が、意識なく存在している自己があると考えます。自分を意識しないけれど、痛いと感じている自分が存在しているという考えです。
この自己が進化の圧力で、人間の自己・メタ自己になるという考え方です。
だから、昆虫にもクオリア・意識はあるのです。
蚊も暖かいという温度を感じているでしょうし、目もあるから明るいところと暗いところの区別をクオリアでやっているのです。
また、植物にも生きているという事実から意識的な何者かがあってもおかしくはありませんし、そう考えるほうがまっとうだと思います。