12月23日、今日は天皇誕生日です。

で、お休みなので、


また、クリスマスが近いので、朝から本を読みながら

BGMにバッハのクリスマスオラトリオを聴いていました。


この曲は、冒頭の太鼓、トランペットがにぎやかで、

そして、サーカスの呼び込みのような雰囲気なので、

あまり好きな曲じゃなかったのですが、

年一回のクリスマスという事で、特別に選択し聞いていました。


すると、少したってから、

すごく“しっとり”とした合唱の歌が聞こえてきたのです。

どこかで聞いた曲だなと思いながら。

当然バッハの曲ですが。


私は、貧乏ですが、本と音楽にはお金をかけまして

CDにロ単調ミサ、マタイ受難曲、ヨハネ受難曲も持っています。


そしてそれらを、引っ張り出して確認したら、

マタイ受難曲に同じメロディーがありました。

さらに、同じメロディーは何度も出てきました。

もともとはカンタータからの曲なんでしょうが。


日ごろ、漫然と聞いているだけですから

いいな、と感じても、それがどうの、こうのとは詮索はしなかったので

知りませんでした。


バッハの音楽は

無伴奏バイオリンパルティータのように

神々しい響きを持った音楽があり、

時々BGMで聞いています。

大好きです。


朝から気持ちが落ち着きました。

新しい知識も加わりました。



で本のほうは、

シリーズ心の哲学1 人間篇 勁草書房 の中の

「心的因果と物理主義」 美濃正

を読みました。


美濃先生は大阪市立大学の教授です。(今の肩書きは知りません)


この本では、心的因果を物理主義という考え方を議論抜きの前提で解釈を試みます。

具体的には、まず

心的状態とはまさに脳神経系の状態にほかならない。例えば痛みはある特定の神経生理学的状態にほかならない」という「還元主義」、「タイプ同一説」から始まり、


「非還元的物理主義」=「性質二元論」、さらに「機能主義」にひろがっていきます。


それら、途中経過を省いて、本旨である

J・キムの「非還元的物理主義」に対する批判に続く、彼自身の見解を見ます。


大まかに言えば、非還元主義は頓挫したのだから、還元主義の方向に戻るべきだ、というのがキムの基本方針である。(もちろんその還元主義は以前の心脳同一説と同じ立場ではない)

ではどの様にかと言えば

そのヒントは(物理主義的な)機能主義によって与えられるとキムは考える」と。


詳しく言えば、

機能主義によれば、心的性質は機能的性質、つまり一定の因果的役割として記述されるような性質であり

と機能主義の本質、つまり心的性質は因果的役割をはたすという物理主義では説明できない主義・主張に

この役割は何らかの物理的性質によって果たされる(つまり、機能的性質としての各々の心的性質は何らかの物理的性質によって実現される)。

という物理主義を加え

心的性質は、ある因果的条件を満たすようなある物理的性質(1階の性質)を持つという2階の性質である

とします。


例えば

痛みと言う心的性質は、典型的に身体の損傷などに(1階)よって引き起こされ、典型的にそれを鎮静ないし緩和させよう(2階)とする行動などを引き起こす(1階)、という因果的条件を満たすような物理的性質を持つという性質」がそうなのです。


物理の1階と、心の2階の関係です。


すると、以上は、真の機能主義とは異なって

キムのアイデアによれば、2階の(機能的)性質の(独立)存在は否定される。存在するのは2階の概念ないし述語に過ぎない。」と機能的性質が物理的性質のしもべになってしまったと言うのです。

でも、これはこれで十分とし、先生も

物理主義の枠内での選択に関するかぎり、われわれが選択すべきなのはキム的な還元的物理主義のほうだと結論することが出来るであろう。

といわれています。


キム的な還元的物理主義とは1階、2階の考え方なのです。

なんだか、はじめの心脳同一説と同じではないかと私には、感じます。


そこで、今日の私の疑問点は以下にあるのですが

先生は心的性質を“ビールが飲みたいので台所の冷蔵庫に行く”のような、内容的性質に関してはかなりの説得力を持つのだが

クオリアに関しては成り立つとは限らない。むしろ、クオリアは機能的再解釈を徹底的に拒むような、心的状態の内在的性質だと考えるべき幾つかの根拠が存在する。

と言われ、

物理的性質とこれに還元し得ない性質としてのクオリアとの性質二元論が不可避になるだろう。」といわれています。


クオリアには1階、2階の考えが応用されないと言われます。その根拠はこの論文には示されず、注にジャクソン、1986年と美濃1999年とあるだけですからなんとも言えませんが、心的状態とくれば誰だってクオリア、主体、自由意志全てが含まれると考えます。

先ほども“痛み”を例に説明があったじゃないですか。

キムの論が片手落ちであったというのでしょうか、それが本当であれば、お粗末としか言え無いのです。

先生も納得してはいけないと思うのですが。



でも、クオリアを2階に上げて十分納得のいく議論が出来ると考えられます。それは、モザイクボール情報世界の仮説です。物理と心が十分対応していますし、主体、自由意志、も包含されています。