僕の部屋にいる、めだか

そのめだかの水槽がコケでいっぱい


水槽のアクリル板にコケがいっぱいひっついて

外から中が見えなくなってる


コケは緑色なんで、酸素供給には貢献してるんじゃないかと安心してるが、

あまりにも一杯増え過ぎて、何か悪い影響が出ないか心配だよ


でもめだかは元気に泳いでる

大丈夫でありますよ~に。w





今日は自由意志の話

立教大学文学部の哲学専攻の教授、河野先生の説を、ひもときます。

「暴走する脳科学」河野哲也 光文社新書 2008年

からの引用です。


河野先生は、昨日のブログの岩波講座においても、

エコロジカル・アプローチによる「心の哲学」を展開され、

また「拡張した心」の概念を説明されています。


今日はそれとは別に、「暴走する脳科学」の第五章「脳研究は自由意志を否定するか」を中心に検討していきます。


自由意志といえば、誰でも知ってる、有名なリベット博士の実験を思い浮かべますよね。

その実験は、“実験協力者の任意の指の動き”と、“脳内の「運動準備電位」”を計測したものです。

実験結果から「意思決定の意識とは、運動にいたる因果関係の起動点ではなく、むしろ、運動を行なう脳過程の結果と考えるべきである。そうであるならば、人間の自由意志は、実際に運動を引き起こす力はなく、すでに始まっている脳内の運動過程を遅ればせにモニターするだけの無力な映像のようなものになるのではないだろうか。

と考えられるのです。


実験によると、

人間の行動の前に必ず起こる、脳内の「運動準備電位」を計測すれば、

行動を起こそうとする意識より早くその脳内の「運動準備電位」が観測されるのです。


この事は、行動を起こそうとする意識以前に、脳は行動を起こしていると考えられます。


河野先生は「多くの研究者は、リベットの実験は、主観的な決意が、脳内の生理学的過程に付随する二次的なものにすぎないことを示したと解釈している」と理解されています。


しかし、多くの研究者がそうであろうとも、河野先生の見解はそうではありません。

以上が決定論であれば、自由意志に肩を入れられます。


まず、決定論について

決定論は、ニュートン的な古典物理学の枠内で論じられてきた。しかし、量子力学が物理学に確率論的な法則性を認めた時点で、決定論は支持されなくなった」と一つ目の原因

もう一つは複雑系の科学の示す予測不可能性」が原因で古典的な決定論が避けられます。


しかし、こうした行動の予測不可能性を、意志の自由とは呼ばない。あらゆることが確率的に生起し、自分の行動に関しても確率論的に決定される世界があったとしたら、そこにもやはり意志の自由はないだろう」と、新たな認識のもと決定論を理解します。


しかし、以上のことから、人間の自由意志が存在しない事を導き出すのは早計である」と以上の決定論を論破しようとされます。


まず、「人間の自由な行動は、その人の「よし、やろう」といった決意のもとに開始されるという前提があるといえるだろう。しかし意図的な行為は決意によって始まるものではなく、決意は意図的な行為にとって非本質的である

と、意図的な行為は決意とともに始まらないとし、


行為の動機は、時間的にも空間的にも広がりをもって醸し出されていく。

この動機付けにいたる時空間の幅の中に、自由の余地が生まれるのである

と自由意志を説明されます。


そして、行為の選択がある場合を、自由があるとします。

自由意志とは、決意によって行為が開始されることでなく、行為の選択の自由があるときをいう」とあります。


ここが大事なところで、先生は

リベット博士の自由行動の実験を、

行為の選択と自由の関連に変えています。

論点が変わって来ました。


話を戻して、自由と関係する、

その行為の選択は「知覚と認識による「知る」ということの役割である」のです。また「しることは探索的な行為であり、・・これまでの自分を変更してくれるような何かを外部に求めている点にあり・・・

高等な動物は、ある目的を達成するのにさまざまな手段の選択ができる。・・・

人間はこの手段の選択がじつに柔軟である。・・

こうした場合、私がいかなる手段を見つけることができるかについては、私の心や脳のなかをいくら覗いても見つからないだろう

と行為の選択は「知る」ことから始まり、目的達成のための手段の選択に変わります。そしてそれはいくら覗いても見つからないのです。ここでも、脳内の「運動準備電位」は飛んでしまっています。



また、詳細は省きますが

目的の選択も手段の選択も同じではないだろうか、というのも、人間の人生が、よりよく生きることを目指したものであるならば、あらゆるものがそのための手段や方法であるといいうるからである


終りに、「結論すれば、自由とは、自分を教育し成長させることに存する。「真理は私たちを自由にする」という古代ギリシャの箴言は、認識と自由の強いつながりについて示唆したものだったのだ。

私はこのことは脳が可塑的だという事実に符合するものだと思う。

脳の可塑性は、私たちが自由な存在であることの神経生理学的表現である


と高々に宣言されています。



翻って考えるに、

河野先生は、リベット博士の実験結果について何も言っていないのです。リベット博士の実験は“行為と脳内の「運動準備電位」・行為の原因”、そして“行為と行為をしようとする意識”の時間的差に注目をし、

“自由意志の本質を探ろう”としたものであるのに、

先生は“決定論と自由意志”という次元の異なる論を展開されています。


論点がずれています。だから「脳の可塑性は、私たちが自由な存在であることの神経生理学的表現である」という場違いな表現が現われてきます。

先生が自由意志を擁護されるのであれば、脳内の「運動準備電位」の実験結果・リベット博士の実験の解釈をぜひお聞きしたいものです。



それとも、先生はリベット博士の事件結果に対し、問題提起として取り上げられただけかも知れません。

解釈に無頓着なのはそのためかも知れません。

またこの本はリベット博士の実験結果の解釈をしようとしていないのかも知れません。


私の誤読でしょうか。