さて、

仕事が忙しくてブログの時間が取れなかった。

昨日も遅くまでの仕事。


でも、忙しいのがやっぱり、いい。

そのほうが、落ち着く。




今日は頑張って、前回の続き。

「心/脳の哲学の未来」染谷昌義 岩波講座 哲学

より。


前回は大森のエッセーを枕に。

大森が、脳産教理(脳内の信号の因果過程で意識が発生するという解釈)を批判した根拠の論を染谷先生も使います。

染谷先生の仮説理論の起点の論です。


それは、「外界の風景が見えているという視覚意識の成立は、因果過程として説明されるべき事柄ではなく、「意味的論理的関係」あるいは「意味関係」によって成り立っている」ということです。

因果過程が脳産教理で批判の対象、そして

批判の根拠・染谷先生の起点の論は「意味的論理的関係」「意味関係」となります。


大森と染谷先生の論では、この「意味関係」が重要で、前回の「無脳、有脳」は気にしなくていい事ですから今回は省きます。

つまり視覚意識の成立が、脳内神経信号の因果過程では成立せず、意味関係によって成立するのである、との主張が重要な論点なのです。

「無脳、有脳」はそう重要ではありません。



すると、この「意味関係」の理解が最大のポイントになります。どのように「意味関係」を捉えるか。


大森の例では

たとえば、部屋の中央にある机を私が見ているとしよう。この私が見ているという事態は、私が体を動かして机を見る視点位置を変えることに連動して机の見え方が変化することを端的に「意味している」。

机の視覚風景が私の視覚経験として私に帰属されるのは、眼や顔の向きや、体の移動につれて風景が変わるからであるし、そうした身体の運動と連動した風景の変化のあることが、風景が私に見られていることの意味内容をなしている。

「私が机を見ている」事態は因果的に成り立っているのではなく、このような視点の位置の移動と机の風景が変わる事の関連性(意味的な関連性)を「意味」しており、

この関連性の出自は因果関係とは別なのである。

顔の向きを変えれば風景はそれにつれて変わるし、身体の移動につれても変わる。このことがその視覚風景を私に帰属させるのである。

ここで大切な事は、身体と視覚風景との連動変化を理由、あるいは証拠として私への帰属が結論されるのではなく、その連動変化することが私への帰属の意味なのだ、」

「この視覚風景と私の身体との連動変化は全然因果的ではない。顔の向きを変えれば風景が変わる、ここには因果関連が見当たらない。」

「顔の向きが変わるということはすなわち、正面に見える諸物体<の風景>が変わる事を意味する。そして向き合う諸物体<の風景>が変わるということはすなわち、正面に見える諸物体<の風景>が変わる事を意味する。だからこれは意味上の連動であり、いわば論理的連動なのであって、因果的連動ではなく、全く別種の連動なのである。したがって、この連動変化を意味とする帰属の意味もまた因果的なものを一切含まない。・・・帰属の意味は「脳」といかなる関係もない。」

「したがって、帰属の意味の成立は脳の有無に依存しない。」

「つまり、たとえ脳がないとしても「私に・・が見える」と言う事態は十分ありうる

とあります。


大事なポイントであるので、大森の例を全文引用しました。

染谷先生は上文の前半(意味関係)を発展的に流用し、後半(無脳論)を否定されました。


前半の「意味関係」を、ジェームス・ギブソンの生態学的アプローチにかぶせます。そうすることにより、「心身問題に悩まされることなく、知覚経験という心理的活動を科学できる」そうです。

意識問題の最大点に悩まされなくて済むとは本当の事でしょうか。

なんとなく、眉唾的ですが、先を進みましょう。




大森の「意味関係」とギブソンの生態学的アプローチは、同じ事のようです。


それでは、生態学的アプローチとはなにか。


まず、生態学的アプローチが導入された理由は、「因果的過程により知覚風景がうまれると仮定すると、この因果的な知覚理論が循環に陥っている」という指摘があるからです。

入力処理にもとずく因果的な知覚論はどうしても論点先取を犯してしまうのです。

なぜなら

もし、感覚入力に何らかの処理を施さなければ環境について知覚的に知ることができないとすれば、処理過程を経た後に得られる環境についての知覚的知識が前もって存在していなければならない」からなのです。


つまり、感覚入力だけでは、環境について何も知ることができないといっているのです。眼から得られる「机」の信号だけでは、脳はその信号を使っても、見たものが机であると認識できないとの主張です。

何かがある、何かの信号があるということしか言えないのです。


そこで、この信号に意味を与えないといけないという判断をもとに、大森は「意味関係」を持ち出してきていたのです。


一方、生態学的アプローチでは情報抽出理論と呼ばれる考え方を持ってくるのです。ギブソンのこの理論によると、

情報は環境内に存在し、環境内の場所や対象物やそれらを構成している物質、それらの変化や運動である出来事、そして環境内での知覚者の存在を一意に指定/特定する(Specify)<エネルギー強度の差異パターン>を示す」ものをいうのです。


見たものが「机」であると結論付けるには、環境内の全ての情報・出来事を使います。そこに情報が存在しているからです。

この「情報」は、大森の「意味」と一脈通ずるところがあると言います。



ギブソンの例えでは、

静止している机、運動している私を、光学的法則により決まる光情報が空間に存在しており、それは全ての光学的情報を持っており「包囲光配列」と呼ばれるのです。このなかから当の光学的情報を取り出す。このとき、この光学的情報が特定している「机」と「見ている私」を知覚した(見た)ことになる。」とあり、また

生態学的アプローチでは、意味そして視覚風景と呼ばれていたものは環境のなかにある。環境内の対象物とそれを見ている私はともにみられるものであり、それらを見ることができるのは、この両者を法則的に特定している光学的情報を包囲光配列のなかから「発見する」ことができたからなのだ」とあります。


ギブソンの光の理論を、ここでは十分な説明が出来ませんが

これは物理光学や幾何光学と矛盾する光学ではないが、それらが明らかにしてこなかった、より高次の光の事実を説明する応用光学である。その主旨は、生態学的な水準、つまり動物のスケールに見合った水準での光は、さまざまな環境の事実を特定するように「構造化されている」というものだ。この光の構造の中に、変化しながらも持続する「高次の構造(不変項)」があるとき、それは環境中の或る事実を法則的に特定する情報(意味)になることができる。知覚者の頭の中ではなく、媒質中の光の中に対象物や自己の存在を見ることを可能にする豊な情報がある。」のです。


高次の不変項とはよくわかりませんが、不変項を基準にして全体から意味を作り上げようとする意図はよく理解できます。

そして上の文では頭の中には何があるのでしょうか。情報(意味)は頭の中に無いのでしょうか。


このように、環境内の全情報から目的の情報を、全身的な活動で発見しようとしています。



そこで、具体的な

自己と環境を知覚するために知覚者に求められていることは、情報(意味)の発見である」となるのです。

環境内の情報をどのようにすれば意味が発見できるのか。

知覚者とは何なのか。


意味の発見のためには、

からだを移動し、

身体全てを動員し、

また自己を不断に作り変えていかなければなりません。

器官調整と組織化。

意味との遭遇のために知覚者の身体の動きをその細部に至るまで整え続けている」のです。

何かが体の中に入って処理された結果、意味が意識され、知覚が成立するという因果図式ではなく、意味を探す活動をすでに進行させている知覚者が、意味(情報)の特徴に応じて自分の「姿勢」を整えるのである。そしてこの「姿勢」を自前で整え、情報を発見したことが意味を「意識」(aware)したことである。」のです。



そうして得られた意味が意識になるのです。

意識は情報(意味)を発見した状態である。意識は情報(意味)との関連で定義される。このような意識は心的状態であるとも物的状態であるとも言えない。

意味に共鳴する全身的な生きている状態を作り出せたとき、それが意識となる

脳が因果的に意識を生み出すのではない

と言われます。



そして、染谷先生の結論は

私が唱えたのは、心のはたらきは意味に満ちた環境のなかから意味を発見する生態学的な活動であるという信仰である。脳が必要とされるのは、意識や主観的状態を生み出すためにではなく、周囲の意味を発見するためにである。

この提案は、脳の生態学的機能の一つの仮説に過ぎない。しかし少なくとも、知覚意識に対しては心身/心脳問題について悩まされずに済む。

といわれます。



以上より、環境内での意味、情報が環境内にあることは十分に理解できたとします。

でも誰が意味を「発見する」のでしょうか。

意味を探す活動をすでに進行させている知覚者」が発見するのでしょうか。

発見とは何なのでしょうか、物理的表現は可能なのでしょうか、どのような言い回しが出来るのでしょうか。


そして、知覚経験がどのようにして、その全体情報の中から特定の情報(これが机である等)の意味を具体的に作り上げるのか。


身体を環境内で動かしていけば、それで事は済むのでしょうか。

自分の姿勢を整えたら意味が起こってくるのでしょうか。

姿勢を整えるとは、発見するための身体システム構成を変える(眼球を動かす、触ってみる、歩いてみる)事でしょうか。


先生の結論である「心のはたらきは環境中から意味を発見する活動である」と言っていますが、この心の活動から意識が生まれるのでしょうか。すると心とは何なのでしょうか。

疑問がわいてきます。

さらに、このことでどうして心身/心脳問題がなくなるのでしょうか。


そのことに関し、「環境に存在する意味や意味関係に呼応するはたらきが、心のはたらきであり心理活動にほかならない、だから心身問題は消失している」とありますが、論理の飛躍があってこの文章の意味がよくわかりません。

呼応するはたらきとは具体的に何をさしているのか

抽象的な言葉遣いが多く、本質がつかめません。


見えたものの中(環境)に意味を作り出してその結果意識が生まれるように解釈できますが、どうして物が見えるのかが問題なのですから、自己矛盾しているような感じがします。


以上の私なりの解釈は、誤解があり誤っているかもしれません。

本来はギブソンの仮説をもっと徹底的に調べなければならない案件なのでしょう。


でも、いずれにせよ、問題は

「どのようにすればクオリアのような異次元の存在物が身体活動から生まれるか」

なのです。