たしかに寒くなりました。

さすがに水シャワーでは辛いです。

そんで、今週からお湯を使っています。


11月からはお風呂を使おう。

手足をのばしゆっくりと。


そうか、そろそろ冬の仕度もせんとあかんな、

つぎの休みにしょっと。




今日も哲学者の思想を勉強します、

今日の先生の名前は金杉武司。先生は高千穂大学の准教授でいらっしゃいます。東大の村田純一先生、信原幸弘先生の御弟子さんだそうです。


「心の哲学入門」金杉武司 勁草書房 2007年

「岩波講座 哲学05 心/脳の哲学」岩波書店 2008年

      上書内の 3 心から脳へ 金杉武司 63ページ


の二冊より。

とくに上記両書で取り上げられている、心脳同一説と機能主義に焦点を当てます。


「心の哲学入門」は入門書であって、すごく分かり易く書かれてあります。

一方、哲学講座は論文調で格調高いのです。

これら共に出版年が近いのですから、内容が同じはずと思われますが異なっています。

特に、機能主義の内容説明に大きな違いがあります。


何故かな、と考えるに、

片方の書は入門書だから、手抜きしているのかなと思いました。


それでは中身について、

両方とも心とは何でしょうかという口上から始まり、次にデカルト的二元論の説明に入ります。この導入パターンは哲学者が良く使う手法で、やはり偉大なデカルトの影響が現在にまで及んでいるのです。哲学に志す若い学生の入門書に最適の思想であるとの証でしょうか。


その次に、デカルトの二元論では説明が出来ない心的因果の問題をクリアーできる物理主義(物的一元論)の説明が始まります。

心的因果の問題とは「いかにして心的なものが物的なものに因果作用を及ぼしうるのか」、つまりもし心があるとすれば、その心がどのように筋肉に動作を指示できるのかということです。“心が物体に影響を与えられるか?”の問題です。

非物理が物理に影響を与えられるか。

この問題の答えとしては“与えられない”としか言えないのです。


そこで、それを避けるための仮説、まず“心脳同一説”その次が“機能主義”の説明となります。


先生の心脳同一説とは


心脳同一説のテーゼ:各タイプの心の状態は特定のタイプの脳状態と同一である。


また、「心は脳という物理的存在に他ならない」とあります①。これなら心的因果の問題はなくなります。同じですから。

なくなりますが、別の問題が生じてくるとして反論をあげます。


この考え方の反論として、先生が紹介されているのはすごく唐突な感じのする反論で、

二つの生物が同一タイプの心の状態にあるとしたら、それらの生物は同一タイプの脳状態にあるのでなければならない。例えば、人間とタコがともに痛みの感覚というタイプの心の状態にあるとしたら、人間とタコは同一タイプの脳状態にあるのでなければならない。しかし、生物の生体構造の多様性を考えるとそれは信じがたい。

また、人間の脳神経を人工神経に置き換えたサイボーグやロボットが、人間と同じタイプの心の状態(例えば痛みの感覚)を持つこともありえないことになってしまう。なぜなら、それらの脳は、人間の脳とは別の物理的素材によってできているため、それらの脳状態は人間の脳状態と同じタイプのものではありえないからである。しかし、これはあまりに排他的ではないだろうか。」です②。


この先生の紹介された反論はあまりにも常識はずれの反論で

例えば、「タコと人間の痛みの感覚が同一タイプの心の状態であるなら」という前提が普通では考えられません。まず同一タイプの脳状態とは何なのでしょう。普通考えれば同一タイプには絶対なれないと思いますが。痛みだけを取り出して同一など言えませんよね。タコと違い、人間は明日のことも考えてますから。


また、サイボーグやロボット、これは素材が違っているから、脳の状態が同一タイプではないと言っています。

それじゃ、素材が同じなら脳状態が同じになれるのか。それとも、素材を気にしなければいいだけで、タイプの定義を緩めてやれば同じになれるのか。

考えてみれば、物理世界において全く同一はありえないと考えるのが正解で、同じ人間(同一人物)でも同じ脳状態は再現できないのです。経験は脳状態を変化させるといいますし、同じ経験などありえませんから。


これらより、この反論は反論になっていないと思われます。

それより、心が物理的存在であるという事の説明がなされていません。心はどう考えても物理的存在と言う感覚が無いのです。このことのほうが心的因果の問題より気になります。根本的な問題ですから。

どうして、疑問としないのか不思議です。



いずれにせよ、先生の文章では、心脳同一説は排除されました。(納得出来ませんが)

そこで“機能主義”の登場です。


機能主義は①本では、


機能主義のテーゼ:各タイプの心の状態は、特定の機能で定義される状態である。


この、「機能的状態は様々なタイプの物理的状態によって(心の状態が)実現可能である」ので「たとえ人工素材で出来た脳の状態であっても、それが適切な機能をはたす状態であれば・・ロボットであっても・・心をもっていることになる」①のです。

脳の機能が心の状態を作るのです。“脳状態”から“脳の機能”に変わったのです。

心脳同一説の拡張版と考えられすごくわかり易いのですが。


でも②本の方ではそうは言っていません。

各タイプの心の状態は、特定のタイプの脳状態と同一関係にあるのではなく、さまざまなタイプの脳状態と、それらによって実現されるという関係にあるのである。

痛みの感覚は、指にはりを刺すといった物理的刺激で引き起こされ、「痛い!」という発話行動や痛みの原因を取り除こうとする行動を引き起こす、という機能を持つと考えられる

機能に心の状態の本質を見出すが故に「機能主義」と呼ばれる

のですが、あくまでも同一関係とは区別されるものなのです。

つまり、あるタイプの心の状態が、さまざまなタイプの脳状態によって実現されるという事は、心の機能的性質が、様々な物的性質によって引き起こされるという事であると言っています。

この事に対して、①では一言の説明もありませんでした。①と②では異なる「機能主義」なのでしょうか。



まとめます。

各タイプの心の状態と、各タイプの脳の状態が同じ

であるのが②の心脳同一説で

あるタイプの心の状態が、さまざまなタイプの脳状態(機能)である

のが②の機能主義


さまざまなタイプの心の状態が、さまざまなタイプの脳状態である

(各タイプの心の状態が、各タイプの脳の状態と、解説がされています)

というのが①の心脳同一説で

上の脳状態が機能に変わったのが①の機能主義となります。



違いは

①の機能主義のさまざまなタイプの心の状態が

②の機能主義のあるタイプの心の状態に変わったのです。


この変化だけで、問題が起こってきたと主張されます。

それで②では「心的因果の問題が亡霊のようによみがえってきた」と、言われているのです。①ではそのような話はありません。②だけにです。


理由は、

たとえば、Aタイプの心の状態が、αタイプの脳状態とβタイプの脳状態という異なるタイプの脳状態によって実現されているとしよう。もしそれらの関係を同一関係と考えるならば、Aタイプの心の状態とαタイプの脳状態が同一であると同時に、Aタイプの心の状態とβタイプの脳状態も同一であることになる。しかし、それは、αタイプの脳状態とβタイプの脳状態が同じタイプの脳状態であることを意味し、それらが異なるタイプの脳状態であるという前提に反してしまう

これは、心の状態のタイプを決めている機能的な性質と、その心の状態を実現する脳状態のタイプを決めている脳の物的性質の間の関係も同一関係ではない

というのが理由なのです。

この様に①と②では異なっています。


また

α≠βの状態で

(α、β)――>A

が成り立っているから

α=β

である。


が成り立たないのはあたりまえで、あまりにも杜撰な論理です。

(α、β)――>Aにより、α=βの保証など誰もしていないのです。


これらから②本の以降の論点には、意味がなくなったのではないでしょうか。

誤った前提での論理構築ですから。




機能主義に付いては、

②の同本で別項目の著者(鈴木貴之先生)の言

機能主義にはさらに原理的な問題がある。それは心的因果の問題である。(この問題はジェグォン・キムの「物理世界の中の心―心身問題と心的因果」2006年日本出版にある)


例えば、横断歩道を渡ろうという意図が、ある脳状態によって実現された機能的状態にほかならないとき、わたる(身体)行動は、

脳状態の物理的記述からの説明は可能であるが、

一方、身体運動を説明するためには心的性質に言及する必要がなく、心的性質は、行動の因果的説明に役割を持たない

と説明があります。


もとに戻って鈴木先生の機能主義と金杉先生の②本の中の機能主義と似ていますが非です。金杉先生は、“心的性質が行動の因果的説明に役割を持っている”のだから、心的因果の問題がよみがえってきたと言われています。一方鈴木先生の方では役割をもっていません。


②の心的因果の問題が亡霊のようによみがえってきたという説明は強引で、本当に亡霊が急に現われてきた感じがします。

なんだか「機能主義」と一言で言っても、単一の考え方ではないようです。

私の理解している機能主義は①本の機能主義ですから心的因果の問題など起こってきません。


さらに、わたしの一番知りたいポイントである意識・心・クオリアが物理的活動からどのように生まれてくるか、またはどのような性質なのかの説明がありません。

哲学者たちには不向きな問題なんでしょうか。