今日、久しぶりに、魚を網で焼きました。

前、焼いたのはいつか忘れたくらいずーっと前の事


なんせ、煙が出て、油が飛んで、後始末が大変ですこし逃げていた

それで、魚、焼くのやめて、煮たら、汁がどぼどぼになったし。


それで今日は、アルミホイル敷いて小アジを焼いた

油を少し引いて焼いたんやけど、やっぱりあかんかった


皮がホイルにひっついて離れず、焼きあがったときには

アジの身はぼろぼろになってしまった。


でも、そんなのにめげず、一人侘しくお昼を食べた。





それで今日のブログは下條先生の錯覚を通しての意識追求の本


「<意識>とは何だろうか」下條信輔 講談社現代新書 1999年


現在、下條先生はカリフォルニア工科大学の教授だそうです。この本は一般向けの本ですが素晴らしい内容になっています。でも10年ほど前の本だから、最近の先生の考え方と違うかも知れません。その点を理解していただいて、以下の文章を読んでください。先生のご専門は心理学であろうと思われます。


この本の目的は一言で言うと

脳の科学的理解は、結局私たちに何をもたらしたのか。・・に答えようとする試み」なんだそうで、具体的には「脳と身体と環境世界との相互作用の「来歴」を軸に」「錯誤」を材料に展開されます。


今日も、私の一番興味あるポイント『意識とは何か・心身問題』を中心にスタディしていきます。どうして物体の活動から、異次元の意識が生まれるのかを追究していきます。



昨日ブログテーマにした水中脳、ここでは「桶の中の脳」として書かれていますが、今日は深追いしません、興味ある方は実書を読んでください。

その他、自由意志、ホマンキュラス、心の論理等の記述があります。そこで心の論理の内の他人の心の存在に対しての文。

それは「他者の心の存在は、・・・私たちが世の中に適応して生きていくうえで適切な信念、つまり意味のあるイリュージョンです。この意味で、知覚・認知のイリュージョンと全く同じように、他者の心は「適正なイリュージョン」なのです。」と他者の心・意識はイリュージョンと主張されています。この場合のイリュージョンは信念のことです。また心を物理的に捉えた場合に「それ自体は単に電気的パルスの集合に過ぎず、心その物ではありません」と常識的な記述になっています。

つまり他者の心は、確認できない私の信念である。と言われています。以前のブログ永井先生の本を思い出します。


次に、心の発達を異なった視点から検討され、言葉の意味の獲得問題をのべられています。

つまり子供はどのようにして言葉を獲得していくのかというテーマです。

ヴィトゲンシュタインを引用され

紅葉した葉を指さして、これが「はっぱ」だよ、と言ったとします。しかしそこで教えている人が言いたいのは、その葉の色なのか、形なのか、材質なのか、・・・・特定の意味は、(このような)直示的な方法ではだめで・・・・どのような状況のもとで、どのようにそのことばを使えば、相手を自分の思っているとおりに動かすことが出来るか・・・」というような全体的な状況下で学び取れると言っています。脳の働きがそのようなものであると主張されています。


また、先生は「痛み」等の感覚的語彙の獲得も同じことで「痛い」と周りから言われて初めて「ああ、私()は痛いんだな」という感覚的語彙を獲得するのだと主張されます。

この事は重大な逆転を示唆しています。つまり、痛みという一見心の内側にあるように思われる経験内容ではなくて、自分が痛いときの行動や他人が「痛い」時のその人の行動が先で、そこから内側の体験が輪郭付けられる」つまり「他者が、意識発生の土壌となることが理解していただけたとおもいます。」のです。


そこで私がさらに興味を引かれたのは

「私が見ている信号の赤色と、あなたが見ている信号の赤色は同じか。ちがうのでは。ちがってもわからないのでは」という・・懐疑・・が成り立たない」と言われている事です。

この懐疑は常識的に全ての人が持ち得る懐疑であると私は思っていますが、先生はそうは言われていません。

そしてその理由として「感覚の語彙、ひいてはその経験が、外にあることばづかいの文化を内に取り込むことによるからです。

つまり赤色を大人に教えてもらったから、その懐疑は成り立たないと言われているのです。

私は違うと思いますが。

それと「他者が意識発生の土壌となる」も首肯できませんでした。


私は意識は脳内の独自の神経活動その物であり、意識の質はその活動の情報の意味その物と理解していますから、懐疑論は当然成り立ちますし、意識発生は脳の成長により外部との連携で正常な意識が創生されると思っています。



次は最大のポイント、意識その物についての先生の主張、

意識について、行動や物質に逃げる事はできません。つまりすべて行動に置き換えて捉えるやり方(行動主義)や、単純な生理過程に還元して考えるやりかた(還元論)では、意識を説明したことにはなりません。意識的体験の質(クオリア)は物理や生理の言語に置き換えられない。」と単刀直入に述べられています。明快です。


特に理由は多く述べられていませんが「意識的な経験についてたいせつなことは、それがそれ以外のものに還元できないということ」が理由の一つとなっています。


さらに「無意識」は「意識」より科学のまな板に載せ易いので

脳科学の本筋の中に「脳の来歴」、脳と身体と環境世界との相互作用の「来歴」をもう一つの軸として入れたら、事態が変わってみえてくるのではないか。外堀(無意識)を埋めることによって、内堀(意識)の正体が見えてくるのではないか。」と言われ、そして最後に「この本全体のメッセージでもあるのです。」と閉められています。



この本は、「意識とは何か・心身問題」について何も答えてくれていません。ただ、物理、生理の言語に置き換えられないと主張されます。

少し残念でした。

先生の意識問題は、

心身問題より、心理学的側面からのアプローチがメインであると考えられ、研究をされているからなのでしょう。気付き・クオリアの意識ではなく心理学的意識がこの本での意識なのです。





最後にわたしが興味を引かれた話があります。

それはヴィトゲンシュタインの子供がことばを獲得する話です。その話は、一つの体系だった全体を学び取る事の話しだと考えられます。

例えば、古代エジプト文字の解読などと同じです。

古代エジプト文字はロゼッタ石という取っ掛かりがあって解読できたそうですが、子供が言葉をおぼえるのはそう簡単には行きません。

全体の生活の中で学び取れるのです。少ない取っ掛かりの中で。


その話と、前から私が考えている意識との関連が興味を引いたのです。

わたしが考えている意識クオリアとは前に述べた「モザイクボール情報世界」仮説


「「意識の謎」への挑戦」野口豊太 文芸社


が正解と思っています。(これにまさる仮説を探しています。)

しかし上の本での、その理論的根拠が薄弱であろうと感じるのです。結果は仮説として正しいのですが、この仮説の根拠が弱いのです。

その根拠の一つとして、子供が言葉を獲得する方法から何かヒントがつかめないかと考えたのです。


確かに意識は脳内情報の意味が自立したものでなければならないと思われます。

一方、コンピュータ内の情報を、どのような構成にしても意識が創生されません。

生命体は、脳・身体・外界が一体になったシステムです。受容器・神経・筋肉と関連し生命体として生きる意味が生まれてきます。

だがコンピュータは全く異なったシステムです。人間が勝手に作ったシステムで意識を創生させようとしていないのです。

この理屈で、脳内情報の意味が意識になれる権利を持っているのはわかりますが、その論理的、機構的理屈が不十分なのです。


情報の意味の脳内における創生は、先ほどの子供が言葉を獲得するのと何か似ているところがありそうだと感じました。


単に子供が言葉を獲得するのと、脳内情報に意味が発生しそれが意味として創生される(意味として自立する)のが同じではないでしょう。でも何か似た点がありそうなので、ヴィトゲンシュタインをも勉強しよう、と思ってます。


何せ、意識創生のメカニズムを求めます。