今日は秋雨がしとしとと降っています。

昨日のお休みの日、秋冬用の衣服を出し夏と交換しました。

天気が良く蒲団も干しすっきりしましたが、


一人でやっていると、何か侘しさが漂ってくるんです。

ときどき。

僕はこんなんでいいのか、

気分が落ち込みました。


"きっと、秋なんだ"と納得した次第です。




では今日は昨日の続き、広松先生の「新哲学入門」を、追っかけます。


昨日は、「知覚意識状態」と「知覚風景的空間内部」で終わりました。

物理状態でしかいえない「知覚意識状態」と

良くわからない「知覚風景的空間内部」です。

「知覚風景的空間」はどこにあるんでしょう。


先生は具体的に

知覚的意識状態は脳物理活動の状態に対応した内容が現成する。

意識内部ではない知覚風景的空間内部に知覚的意識が結像する。

しかし、「知覚心像」が知覚主体の内部に存在するわけではない。

と言われます。



現成するとは、結像するとは、知覚心像とは何か。

私には、はっきり言って意味不明ですが、たぶん次の文が先生の本当の考えなんでしょう。

実情は、内臓という事ではなく、表象的な意識現象は外部知覚の流儀では現認できないたぐいのもの」で「「心像」なるものをまるで「物」みたいに収納できない」という事です。

心像は外から見てわからない、物ではない、“ないないと否定でしか現されな”いもの、という事でしょうか。要するに、実在しないもの、これの取扱いを試みているのです。


現在においては、先生の認識(心像が物ではないという認識)は意識を追求する意識ハンターであれば、当然の常識と考えられます。その当時では、今と異なった認識が存在していたのかもしれません。


話をもどして、先生は「三項図式」を採用すれば、「「不可知論」と「独我論」を理論的に克服できない仕儀に陥った」と弊害を主張されます。

不可知論とは、対象を直かに認識する事はできず、認識出来るのは「内なる心像」だけである論。

独我論とは、他人の意識は不可知である論。です。

これら「不可知論」「独我論」も最近では変化していると考えます。つまり、その通り(不可知で独我)なのです。この話は、本筋と離れています。



再度話を戻して。

そこで、先生は「既成概念をできるかぎり放逐して、日常的体験場面、知覚風景的なフェノメナルな(現にアルがままの)現相を正視するところから再出発」しようとします。

仕切り直すのです。知覚心像の見直しです。


まず現認されるがままに記述・分析するところから始めます、それは

知覚風景に現前する各々の現相は、その都度すでに、直接的な与件・所与(あたえられているもの)より以上・以外の<或るもの>として知覚されており」さらに

当事者の直接的意識においては「直接的な所与」と「それ以上の或るもの=所識」という構造的二契機が常に必ず区別的に現識されているとはかぎりません。」がしかし、

いささか省察してみると、現相が「所与―所識」の二肢的構造態になっていることに容易に気が付きます

と、以後大事な概念である「所与―所識」構造が出てきました。この構造がこの本では幹の如く存在します。“与えられたもの”と“知れるところのものです”。

所与が、所与より以上・以外のものとして(所識として、意味として)知覚される。


『所識=それ以上の或るもの』、を導入して意識を解釈しようとします。具体的例で示したほうがわかり易いですから、先生の電話の例から。

電話の声をきいて相手が誰かわかる場合の例で、「声という知覚的所与を、それとは別途に何ら表象像をうかべることなく、端的に所与以上の或るもの=所識として覚知している」という事です。

ここで先生は『所与=言語的記号、所識=意味』を示したかったようです。そして、大事なのは、意味的所識は表象的心像ではないという事です。現相において、知覚したもの(所与)から、それ以上の或るものとして(所識)が得られるという感じでしょうか。


まとめれば、知覚的現認相は「記号―意味」的構成で了解することになります。これが新しいヒュポダイムです。三項図式が変わりました。先生の主張がここにあります。

このスキームで認識論を展開されます。このあたりになると、もはや“意識とは何か”という議論がなくなっています。




そして「所与をそれ以上・以外の或るものとして覚知する」という構造は、「判断」の構造に他ならないとして、判断について考察が加えられていきます。

その考察の中で所与、所識のさらなる深い考察が加えられていきます。


判断は、通常、「主語―述語」構造態として、からはじまり、「所与」契機を判断上の主語、そして「所識」を判断論上の「述語」と呼ばれまして、そして論が進められます。


まず「一般論として、判断というものは、主語表象と述語表象との表象的結合・分離ではない」と、そして実は「「所与」というのは「所識」との相関的規定項なのである。」というのです。具体的には「「内側―外側」という相関的規定において独立自存の「内側というもの」は実在しません」「その都度の「所識」との一定の関係に立つかぎり、ありとあらゆるものが「所与」たりうるのです」という事です。「所与」という特定種類の自存的なものが無いのです。所与と所識が渾然としている様子がわかります。所与と所識の関係について議論が深まります。


以上の前提の後、<意味的所識>なるものがあたかもそれ自体として存在せず、実際には「所与を所識として覚知する」という関係的規定態を離れては、<所識なるもの>が自存しないのです。


なんだか、怪しくややっこしくなってきました。それじゃ何だと言いたくなりますよね、そこが著者の思う壺なのです。

そろそろ終わりとしたいところですが、まだまだ続きます。なかなか許してくれませんのでここらで独断的にこの所与―所識関係を終了させます。


「所与」を単なるそれ以上・以外の<或るもの>として知覚する場合、その或るものは、表象的心像のかたちで浮かぶわけではありません。」つまり「像と呼べる相で現前するのは「所与」だけであるにかかわらず、しかし、その所与は単なるそれとして、“見つめられて”あるのではなく、それ以上・以外の或るものとして意識されていることも事実です。


上の文章理解できますか?

以前の三項図式のうちの最後の二つ

意識内容―意識作用の関係に所与―所識が関連しています。

所与はありとあらゆるものが成り得ますが、特定の自存的なものが無く、

意識の像という相で現前する所与は、何か或るものとして意識されているのです。(意識内容)

そしてその意識されているあるものは所識ですが、表象心像では無いのです。(意識作用)

さらに以上の説明は意識態の定義では無いのです。なぜなら「痛い」という意識態を定義しようとしても「土台無理」で「不可能」なのですから。


それじゃ何がどうなのだといえば。

(或るもの)「として」の覚知が、<所識>なる項の直截な像的現出がないにかかわらず現成しうること、・・あわせて、ほかならぬかくかくの所識としての“同一性”覚識態において所与が“現認”されるということ」となります。


ここで同一性の説明が必要となります。それは、犬のぬいぐるみ、犬の声、犬の絵などから、犬という意味がうかびそれが同一的に犬に集中することを言っています。


いずれにしても「単純な事態ではないのです。


以上のように、先生の論は非常にわかりにくく煩瑣である事は否めません。結局わたしが感じた認識論は、“意識の追求”ではなく、人がどのように対象を認識しているのかという所に重点をおいて書かれた認識論と感じます。いわゆる心身問題とは軸足がずれています。



そこで、意識という側面からの先生の発言をこの本から求めますと、最後の章の実践するとはどういうことかにおいて書かれた「人格的主体」問題があります。

人格の主体をどのように考え取り扱えばいいのかがかかれています。

ここにおいて「人格的主体」の外見的説明はありますけれど、本質的な表現に出会えません。先生としては「私どもは、実践論の次元では、行為の選択的・自発的な起動を行ない得る主体であるものとして個人的人物を遇する次第です。」とお手上げの状態を吐露されています。

そして、「このさい「意識能力・意識機能」なるものが一方にあり、「身体的主体」なるものがもう一方にあって、後者が前者を文字通りに「具えて」いる、という発想ではちがって、後者が前者を“発揮”するのであり、そのことにおいて後者が「身体的主体」と呼ばれる」と、これもあまり意味をなしません。


このように、いかに、その当時意識問題が困難な問題かを再認識させられました。