山本七平が「なるなる論」と名付けた奇怪な論法について述べている。曰く、ある教授の話として「火事になっても学内に消防士を入れてはならない。これを許せば、事件が起きれば刑事を入れることを許すことになり、やがては学問の自由が脅かされることになる」という議論である。
この「なるなる論」は「憲法解釈の変更で集団的自衛権の行使を容認すると、次は徴兵制も憲法解釈の変更で実施されるようになる」と批判している人々の論法をうまく説明している。この主張の前には、総理や政府関係者の「徴兵制はやらない」という意思表示はまったく無視されてしまう。
山本七平は、この「なるなる論」は「組織が、その組織を存立させている目的を見失ったときに起こる」と指摘する。即ち、大学であれば「教育をする」「研究をする」というのがその目的であり、これに沿った意思決定や対処をしていれば「ならない」で済むにも関わらず、これを見失うと「なる」になる。
集団的自衛権を容認すると徴兵制に「なる」と主張する人は、有権者のひとりとして我が国の国政に参加している自覚がない。参加している自覚があれば「徴兵制にはさせない」「認めない」という意思表示になるはず。日本国政府を「他者」としか見ていないから、「する」という主体性を感じない。
これは、集団的自衛権を遠い国の戦争に行使するかどうかにも当てはまる。集団的自衛権は義務ではなく権利なので、どこかの国に対して侵略が発生した場合に、政府がその都度判断する。従って、その時点で有権者として意思表示する機会がある。民主主義国家では有権者の理解無しに戦争はできない。
憲法第十三条にあるように政府は国民の生命、自由及び幸福追求の権利を守る義務がある。「なるなる論」者は、この政府の義務を失念しているのか、あるいは信用せず、政府は国民に害悪を為すものと決めつけているようだ。民主主義によって自分たちが選び、変えることもできる政府だと知らないのか。
「なるなる論」者が「なる」と主張するその路線の途中にいくつも「する」または「しない」の意思決定の機会がある。それを無視して「なる」と一方的に決めつけた不利益を避けるために、その途中にある「する」ことによって守られる国益を逸失することはあまりにも愚かな考え方だと思う。