「100日後に死ぬワニ」最終回が猛批判された訳 今後「SNSによる作家活動」難しくなる危険も
そもそもなぜ批判を集めたのか?

そして迎えた最終回。ワニは、その200万人以上のフォロワーたちに看取られるような形で死に、作品は完結した。ワニの死は、多くの人々の感動を呼び、さまざまな感想がタイムライン上に飛び交ったが、その感動が、まだ冷めやらぬ中だった。

まさに作品の完結と同時に、「いきものがかり」とのコラボムービーが公開され、さらには映画化やグッズ販売、ポップアップストアのオープンなど、さまざまなメディアミックスの展開が、矢継ぎ早に発表されたことが批判を集めることとなってしまった。

批判の内容は、主に「この作品は、最初からメディアミックスなどを前提に仕組まれていたのではないか」というもの。そこから派生する形で、本作品における広告代理店の関与が取り沙汰され、ツイッターの「トレンド」には「電通案件」という4文字が踊った。

さらに、批判の矛先は作者のきくちゆうき氏にまでおよび、同氏の過去のツイートなどから「仕込み」が疑われることとなってしまった。

制作側と読者側との「決定的なズレ」

それは、作品そのものを構成する、その中心となる文脈に「死」、さらには、そこから導き出される「感動」というものが含まれていたからだと考えられる。

仮に『ロミオとジュリエット』の舞台で、二人が自らの命を絶ち、悲劇が幕を閉じた直後、カーテンコールを待たずして劇場が明るくなり、突然監督が舞台に現れ、この舞台を収録したDVDの宣伝をし始めたとしたら――。それに似たような感覚を、あの矢継ぎ早の告知は与えてしまったと言えるだろう。

ワニは、そのタイトル通り100日目で死んだが、ワニに対して愛着を持ち、感情移入をした読者にとって、ワニは100日目の時点では、まだ死んでいなかったのだ。
SNSという空間で多くのユーザーたちを巻き込みながら育ったコンテンツをビジネスとして収益化させる際には、その巻き込んだユーザーたちの存在を意識し、ある意味ではステークホルダーとして考える必要がある。

今回、最も懸念されるのは、今後『100日後に死ぬワニ』と同様に、SNSなどのインターネット上から、何らかの形でマンガや映像などのコンテンツが発信され、それが口コミで人気を獲得し、多くの人たちの目に触れるようになった時に「どうせ、これも“仕込み”でしょ?」といった形で、揶揄されやすい前例を作ってしまったことだ。
それでも「収益化」は至極真っ当なこと

クリエイターがコンテンツを制作し、それをSNSなどインターネットを通じて、何らかの形で世に出して広め、さらに、それをビジネスとして収益化させるということは、至極当然であり、それは否定されてはならない。

もし、それを否定するような流れができれば、クリエイターが、インターネット上で自らのコンテンツを収益化させづらくなる空気が生まれてしまうことも考えられる。

作者はワニの死を通して「何があるかわからない中で、限りある時間を大切にしてほしい」というメッセージを伝えたかったと語っている。

だが、マーケターにとっては、それだけではなく「UGC(User Generated Contents = 企業ではなくユーザーによって生み出されたコンテンツの総称)の収益化」というテーマを考える上で、今回の騒動は一石を投じるものとなったはずだ。

今回、作者の言葉を借りるとすれば「熱量に引かれて」集まった関係者は、その熱量のピークを「100日目」に持ってくるために、そして、そこにあらゆる告知を集中させるために、相当頑張ってきたはずだ。それは「100日目に間に合わせた」と作者が語っていたことからも推察できる。

もちろん、熱量が冷めないうちに、次なる展開を打ち出していくのは当然のことだ。100日かけて熱量を高めたとしても、それは最終回から10日ともたずに冷めてしまうのは、容易に想像出来る。それだけ人の心は熱しやすく冷めやすい。熱が冷めてから物販やメディアミックスを打ち出しても「今さら」と言われてしまう可能性は高い。

そういう点で、最終回終了直後、矢継ぎ早の告知に至ったのもうなずける。だが、作品のテーマを考えた際に、その“余韻”として残すべき時間、つまり読者が、そのテーマを自分なりに受け止めるために必要だった時間の感覚を、少しだけ見誤ってしまったのかもしれない。