第一問
バーナードは、権力が個人に対してあるべき姿として、「管理行為の原則のうち服従されえない命令、あるいは服従されそうにない命令は発令されないという原則ほど、良い組織において十分確立されている原則はない」としている。
一方で、フロムは、近代化が進むにつれて、人々はより理性的になり、悪魔的なささやきによってではなく功利に基づいて行動するようになったという単純な進歩史観を退け、高度な近代化を迎えた1940年代においてもなお、人々は力の正しさではなくて、むしろ力それ自体により突き動かされ、もはや文明のなかで消滅したかのように思われていた悪魔的な正義を実現させようと躍起になり、人々は自ら考えることを捨て、自由からの自由を求め、自由という責任から逃走していったとまとめている。
彼らにおいて、共通しているのは、権力が命令を下し、その命令はたいていの場合において、(それが道理に適っている場合には)人々によって実行されてきたという認識である。もちろん、バーナードは、それが独裁国家であれ、あまりにばかばかしい場合は実行されえなかったとしているし、フロムは、ファシスト政権下においてはその命令の正しさによってではなくて、その力それ自体によって実行されたことを問題視しているが、いずれにせよ問題がある部分以外においては、権力が個人に対して機能してきたことを認めている。
一方で、異なる点としては、権力の命令に対して、なぜ個人が従順であるかという部分においての考察があげられる。
バーナードは、その理由について、命令の正しさを挙げている。つまり、憲法の条項であるとか、禁酒法であるとか、そういったものが厳守されない理由としてはその規則の持つ意味のなさが原因として挙げられると分析している。つまり、彼の視点に基づけば、ファシストたちのあのばかばかしい支配はありえなかったわけだ。
しかし、フロムはこのような進歩史観に基づく、一直線的なものの見方を退ける。人々は、規則の妥当性によってではなく、権力の強さによって、つまり力の正しさによってではなく、力の強さによって従順であるかどうかを決めるとするのである。
この点は特にバーナードと対立する点である。彼は、独裁国家においても、キリスト教社会においても規則が十分に守られていないとしているためである。
しかし、ここでバーナードがいうばかばかしい規則と、フロムがいうばかばかしい規則にはその定義からして大きな隔たりがある。
バーナードがいうばかばかしい規則とは、いわば守られるわけがない規則である。この程度の違反なら許されるだろうという恣意的な判断のもとに、多くの人々が暗黙のうちに破る規則である。
一方で、フロムがいうばかばかしい規則とは、人間の理性の発達を信じる人々にとっては、到底看過しえない蛮行を行ってはならないという個人の内部にある道徳律のことである。一貫した信念といってもいいようなものである。これが近代化された人間には思いのほかかけており、また悪魔のささやきを拒絶する訓練を当時の人々の受けていなかったため、自由からの逃走が生まれたとフロムは考える。
しかし、個人による権力への受け止め方の違いを考えることで、この二人の立場の共通点が明確になる。
バーナードは権威に効果がないときに、規則は無効化されるとする。ならば、なぜ規則は無効化されるのだろうという疑問が浮かび上がってくる。そこで登場するのが、先ほども挙げた暗黙の了解である。周囲との認識の一致が、「赤信号みんなで渡れば怖くない」という意識を生み出し、結果として、規則が守られない状況を生み出す。
この認識は、フロムも共有している。彼は人間にとってもっとも恐ろしいこととは、自由の喪失よりもむしろ周囲からの隔絶、孤独であると見抜き、そうした孤独を避けるために周囲からの同調圧力を感じ取らざるを得ないとする。そして、周囲と同化が果たされたときに、自らの持つ自由を放棄せざるを得なくなり、それが結局のところ、それぞれの個人の、自由からの逃走につながっていくのである。
このように、権力から個人という視点で眺めると二人の考え方は、特にその楽観性という部分においては大きな隔たりがある。しかし、個人から権力という視点で眺めると、二人には共通点も多い。特に周囲からの同調圧力が、規則としての規則、あるいは人間としての規則を破らせることのできるものであるという認識は、共有している。
第二問
わたしは、バーナードの立場から、フロムの言説を批判したいと思う。
まず、彼らの立場の違いは、人間には悪への傾向や力への渇望、弱いものの権利の無視や服従への憧れを持つことができるかどうかという点によって生まれる。バーナードは、同調圧力こそが規則を破る原因だとかんがえ、フロムも孤独の恐ろしさを語ることにより似たような論理展開をしているが、突如として、「人間には悪への傾向や力への渇望、弱いものの権利の無視や服従への憧れ」という言葉が出て、その根拠としてニーチェやフロイトやマルクスの言説を持ち出すのには違和感を禁じえない。
彼らの言説は、学問としての体をなしていない。なぜならば、あらゆる広義の科学、学問というのは反証可能性があるからこそ、それを担保として信憑性を獲得することができるのだが、彼らの言説にはそういったものがないからである。
たとえば、私がニーチェから「君は、悪への傾向を持っている」といわれたとしよう。私は当然、そんなものは持っていませんと答えるだろう。しかし、彼はなんらのためらいもなく、人生は永遠の繰り返しであり、その中であなたはそういったものを持っていないわけがない。意味のない人生なのだから、あなたがそうした意味のない人生に絶望し、結果そういった傾向を持つことになることは否めないというだろう。この言葉に対してはどのような反論を考えることもできない。彼の「人生は意味のない繰り返しの永遠」という前提条件そのものが証明不可能なものだからである。また、おそらく彼は誰にだって同じことを言うはずだ。
また、マルクスから「君は力への渇望を持っている」といわれたとしよう。私は持っていませんと答える。すると彼は、歴史は一直線に進歩していくものではあるが、君のような存在によって少しばかり退歩することもある。しかし、社会の進歩は歴史の必然であり、いずれ君も進歩の中に回収されていくだろう、となんのためらいもなく言うだろう。しかし、私がどのような状況であれ、社会がどのような状況であり、マルクスはその時々に合わせた言い訳をでっち上げ、否定しえないような答えを用意し、最終的には社会の進歩に結びつけるだろう。おそらく彼はどんな社会においてだって、なにもかもを社会の進歩に結びつける。
フロイトの例はさらに滑稽である。フロイトは私にこう尋ねるだろう。「君は弱いものの権利の無視や服従への憧れを持っているね?」と。私は当然のことながら否定する。しかし、彼は続けてこういう。「それが深層心理の無意識だからこそ、君は自覚し得ないんだ。それが無意識だからこそ、心の奥深くに眠る感情であって問題なのだ」と。ならば、私がもし仮に、そうした感情を認めたとしよう。すると、「ああ、そのとおりだ。君にはそういう感情があるのだ」というだろう。
つまり、この三人との対話においては、どの選択肢を選んでも、答えはまったく変わらないし、結論もまったく同じだし、反証を加えることもできないし、なにより否定しがたい。このことこそが、彼ら三人が救いがたく間違っている所以である。
フロムの論旨は、おそらく後半はそれほど間違っていない。バーナードも述べているように、周囲からの同調圧力は、人間に外的であれ内的であれ規則を破らせるのには十分すぎるぐらい十分なものである。フロムの人間は孤独が恐ろしいのだという考えもおそらくは正しい。それは、人々の行動から帰納的に導き出された結論だし、ごくわずかな反例があったとしても、ここでは大多数の人々の心の動きがどのようなものであり、それが規則、つまり権威と個人の関係についてどのような問題をもたらすかを扱うので、ここでは問題にはならない。
しかし、人間には悪への傾向や力への渇望、弱いものの権利の無視や服従への憧れを持つことができるというフロムの考えには、私は反対せざるを得ない。人々は、人々に対して残酷であったことを選んだのではなくて、人々は宣伝によっていつの間にか周囲に共有された「空気」に呑み込まれてしまっただけなのだと信じたい。そうでなければ、人間という尊い存在の価値についてあまりに救いのない結論を導きざるを得ないようにも思えるからである。
繰り返しになるが、人間には悪への傾向や力への渇望を持つことができるという背景になった先哲の言葉は、一切否定する余地がないという点において、救いがたく間違っている。
あらゆる学問において、その信憑性の担保となるのは、いつだって否定が加えられる余地であり、それは権利が個人に対して与える規則や価値観においても同じことだと私は考える。権力から否定し得ない価値観が与えられることほど恐ろしいことはない。
バーナードは、権力が個人に対してあるべき姿として、「管理行為の原則のうち服従されえない命令、あるいは服従されそうにない命令は発令されないという原則ほど、良い組織において十分確立されている原則はない」としている。
一方で、フロムは、近代化が進むにつれて、人々はより理性的になり、悪魔的なささやきによってではなく功利に基づいて行動するようになったという単純な進歩史観を退け、高度な近代化を迎えた1940年代においてもなお、人々は力の正しさではなくて、むしろ力それ自体により突き動かされ、もはや文明のなかで消滅したかのように思われていた悪魔的な正義を実現させようと躍起になり、人々は自ら考えることを捨て、自由からの自由を求め、自由という責任から逃走していったとまとめている。
彼らにおいて、共通しているのは、権力が命令を下し、その命令はたいていの場合において、(それが道理に適っている場合には)人々によって実行されてきたという認識である。もちろん、バーナードは、それが独裁国家であれ、あまりにばかばかしい場合は実行されえなかったとしているし、フロムは、ファシスト政権下においてはその命令の正しさによってではなくて、その力それ自体によって実行されたことを問題視しているが、いずれにせよ問題がある部分以外においては、権力が個人に対して機能してきたことを認めている。
一方で、異なる点としては、権力の命令に対して、なぜ個人が従順であるかという部分においての考察があげられる。
バーナードは、その理由について、命令の正しさを挙げている。つまり、憲法の条項であるとか、禁酒法であるとか、そういったものが厳守されない理由としてはその規則の持つ意味のなさが原因として挙げられると分析している。つまり、彼の視点に基づけば、ファシストたちのあのばかばかしい支配はありえなかったわけだ。
しかし、フロムはこのような進歩史観に基づく、一直線的なものの見方を退ける。人々は、規則の妥当性によってではなく、権力の強さによって、つまり力の正しさによってではなく、力の強さによって従順であるかどうかを決めるとするのである。
この点は特にバーナードと対立する点である。彼は、独裁国家においても、キリスト教社会においても規則が十分に守られていないとしているためである。
しかし、ここでバーナードがいうばかばかしい規則と、フロムがいうばかばかしい規則にはその定義からして大きな隔たりがある。
バーナードがいうばかばかしい規則とは、いわば守られるわけがない規則である。この程度の違反なら許されるだろうという恣意的な判断のもとに、多くの人々が暗黙のうちに破る規則である。
一方で、フロムがいうばかばかしい規則とは、人間の理性の発達を信じる人々にとっては、到底看過しえない蛮行を行ってはならないという個人の内部にある道徳律のことである。一貫した信念といってもいいようなものである。これが近代化された人間には思いのほかかけており、また悪魔のささやきを拒絶する訓練を当時の人々の受けていなかったため、自由からの逃走が生まれたとフロムは考える。
しかし、個人による権力への受け止め方の違いを考えることで、この二人の立場の共通点が明確になる。
バーナードは権威に効果がないときに、規則は無効化されるとする。ならば、なぜ規則は無効化されるのだろうという疑問が浮かび上がってくる。そこで登場するのが、先ほども挙げた暗黙の了解である。周囲との認識の一致が、「赤信号みんなで渡れば怖くない」という意識を生み出し、結果として、規則が守られない状況を生み出す。
この認識は、フロムも共有している。彼は人間にとってもっとも恐ろしいこととは、自由の喪失よりもむしろ周囲からの隔絶、孤独であると見抜き、そうした孤独を避けるために周囲からの同調圧力を感じ取らざるを得ないとする。そして、周囲と同化が果たされたときに、自らの持つ自由を放棄せざるを得なくなり、それが結局のところ、それぞれの個人の、自由からの逃走につながっていくのである。
このように、権力から個人という視点で眺めると二人の考え方は、特にその楽観性という部分においては大きな隔たりがある。しかし、個人から権力という視点で眺めると、二人には共通点も多い。特に周囲からの同調圧力が、規則としての規則、あるいは人間としての規則を破らせることのできるものであるという認識は、共有している。
第二問
わたしは、バーナードの立場から、フロムの言説を批判したいと思う。
まず、彼らの立場の違いは、人間には悪への傾向や力への渇望、弱いものの権利の無視や服従への憧れを持つことができるかどうかという点によって生まれる。バーナードは、同調圧力こそが規則を破る原因だとかんがえ、フロムも孤独の恐ろしさを語ることにより似たような論理展開をしているが、突如として、「人間には悪への傾向や力への渇望、弱いものの権利の無視や服従への憧れ」という言葉が出て、その根拠としてニーチェやフロイトやマルクスの言説を持ち出すのには違和感を禁じえない。
彼らの言説は、学問としての体をなしていない。なぜならば、あらゆる広義の科学、学問というのは反証可能性があるからこそ、それを担保として信憑性を獲得することができるのだが、彼らの言説にはそういったものがないからである。
たとえば、私がニーチェから「君は、悪への傾向を持っている」といわれたとしよう。私は当然、そんなものは持っていませんと答えるだろう。しかし、彼はなんらのためらいもなく、人生は永遠の繰り返しであり、その中であなたはそういったものを持っていないわけがない。意味のない人生なのだから、あなたがそうした意味のない人生に絶望し、結果そういった傾向を持つことになることは否めないというだろう。この言葉に対してはどのような反論を考えることもできない。彼の「人生は意味のない繰り返しの永遠」という前提条件そのものが証明不可能なものだからである。また、おそらく彼は誰にだって同じことを言うはずだ。
また、マルクスから「君は力への渇望を持っている」といわれたとしよう。私は持っていませんと答える。すると彼は、歴史は一直線に進歩していくものではあるが、君のような存在によって少しばかり退歩することもある。しかし、社会の進歩は歴史の必然であり、いずれ君も進歩の中に回収されていくだろう、となんのためらいもなく言うだろう。しかし、私がどのような状況であれ、社会がどのような状況であり、マルクスはその時々に合わせた言い訳をでっち上げ、否定しえないような答えを用意し、最終的には社会の進歩に結びつけるだろう。おそらく彼はどんな社会においてだって、なにもかもを社会の進歩に結びつける。
フロイトの例はさらに滑稽である。フロイトは私にこう尋ねるだろう。「君は弱いものの権利の無視や服従への憧れを持っているね?」と。私は当然のことながら否定する。しかし、彼は続けてこういう。「それが深層心理の無意識だからこそ、君は自覚し得ないんだ。それが無意識だからこそ、心の奥深くに眠る感情であって問題なのだ」と。ならば、私がもし仮に、そうした感情を認めたとしよう。すると、「ああ、そのとおりだ。君にはそういう感情があるのだ」というだろう。
つまり、この三人との対話においては、どの選択肢を選んでも、答えはまったく変わらないし、結論もまったく同じだし、反証を加えることもできないし、なにより否定しがたい。このことこそが、彼ら三人が救いがたく間違っている所以である。
フロムの論旨は、おそらく後半はそれほど間違っていない。バーナードも述べているように、周囲からの同調圧力は、人間に外的であれ内的であれ規則を破らせるのには十分すぎるぐらい十分なものである。フロムの人間は孤独が恐ろしいのだという考えもおそらくは正しい。それは、人々の行動から帰納的に導き出された結論だし、ごくわずかな反例があったとしても、ここでは大多数の人々の心の動きがどのようなものであり、それが規則、つまり権威と個人の関係についてどのような問題をもたらすかを扱うので、ここでは問題にはならない。
しかし、人間には悪への傾向や力への渇望、弱いものの権利の無視や服従への憧れを持つことができるというフロムの考えには、私は反対せざるを得ない。人々は、人々に対して残酷であったことを選んだのではなくて、人々は宣伝によっていつの間にか周囲に共有された「空気」に呑み込まれてしまっただけなのだと信じたい。そうでなければ、人間という尊い存在の価値についてあまりに救いのない結論を導きざるを得ないようにも思えるからである。
繰り返しになるが、人間には悪への傾向や力への渇望を持つことができるという背景になった先哲の言葉は、一切否定する余地がないという点において、救いがたく間違っている。
あらゆる学問において、その信憑性の担保となるのは、いつだって否定が加えられる余地であり、それは権利が個人に対して与える規則や価値観においても同じことだと私は考える。権力から否定し得ない価値観が与えられることほど恐ろしいことはない。