私は教員の総意いかんにかかわらず、式典の際には国旗を掲揚し、国歌を斉唱するべきだと考える。なぜなら学校教育の目的とは子供たちに社会の不条理を身に付けさせる点にあると考えるためである。

 もしこの意見に反対ならば、その場で体育座りをしてほしい。非常に呼吸が苦しくなる非合理的な座り方ではないか。こうしたくだらない規則はすべて不条理を子供に身体を使って覚えさせるためにあるものだ。

 教員は学校という名の非現実的舞台装置の中で、大人の代表者という役柄を演じている。

 彼らは当然不条理を体言していなくてはならない。些細なことで怒鳴り散らし、さして重要なことでもないことにたいして説教をしなければならない。

 こうした段階を経て、子供たちは不条理に慣れてゆき、さらに不条理な現実社会と向き合い適応することを学んでいくのである。

 軍隊や精神病院にも似たこのような環境の中でしか子供たちは社会性を得られない。

 そして、教員はこの不条理な人という役をまっとうすることで給料をもらう。もし教員が不条理がいやになったので革命を起こしますとでも口走ったら、学校教育が本来果たすべき役割の放棄に他ならないだろう。

 たとえば、公務員にはフェリーが沈んだ際にも救助に参加する義務がある。救命士でもあるまいに不条理極まりない規則だが、こうした不条理を引き受けることで子供たちにもこの世の不条理を教えることができる。

 自衛隊員がいざ出撃の際に、良心的就業拒否をすることがあろうか。いや、ない。自分の意思で選んだ仕事である以上、命令がたとえ不条理なものであっても、従うことは当然だ。まして教員は不条理を教えるのが仕事であるからなおさらだ。

 労働三法を参照しても教員にスト権はない。法的な視点から言っても、憲法はあくまで理念を規定したもので私人間効力はない。教育の持つ儀礼的な観点からについては先に述べたとおりである。

【第二問】

 国旗・国歌を語るに当たって、まずはその根底にある価値観である天皇制について述べたい。国歌「君が代」の君とは君主、つまり天皇に代表される皇室のことであるとい論考がある。君が代とは、国民の、ではなく皇室の、末永い繁栄を祈念する曲であるという結論が個々から導き出され、この理路が国旗・国歌にまつわる問題をいささかややこしいものにしたのではないかという感想を私は抱いている。

 そもそも皇室と国民は制度的に分けて存在するものではない。天皇は象徴として霊的な意味で国民の幸福を祈念する存在である。

 「女系天皇の是非」このような題材でのアンケートがなされる今日の風潮は、主権在民的天皇制の生んでいるものである。少なくとも天皇制に関してのみは、皇室の権威は一国民が不可触であるという客観的事実に担保されている。こうした主権在民的発想で国旗と国歌とを天皇制とを結びつけた論を展開しようとする発想に、以上の点から違和感を覚える。

 しかし、民主主義国家であり、憲法にも「天皇の地位は国民の総意に基づく」とあることを考えると、このような風潮はやむを得ないのかもしれない。それにしても八割以上の国民は天皇制の存続を望んでいる。

 私個人としては強制ではなく、教育でもなく、あくまでも個人として国旗・国歌に敬意を払う。どこかで君が代がなびいているときは一例し、どこからか君が代が流れていれば口ずつむ。それだけの話である。

 君が代の君とは、特攻隊の君であり、ビルマで一人なくなった君である。国家のために亡くなれば英霊として美しいしを遂げることができるという文化はすばらしい。私は愛する人を守るために亡くなった彼らのことを一人の同胞として誇らしく思う。

 この旗を見るとき、幾千の君が語りかけてくる。この歌を聴くとき、幾千の君が肩を叩いてくれる。私は多くの人が自然とそう思える国であれば幸せだと心から思う。