絶対化された既存のメンタルモデルが相対化されることでより有効な問題解決に結びつく例が資料一で紹介されている。電線がはじめてできた時、小包をぶら下げた人がいたというが、これはその逆の例である。

 誤解に基づく放置は危険な方法といえる。なぜならば、機会損失を生むためである。人間不信が代表的な例で本来避けるべきではない授業を忌諱したなかで、それが実際に相手との険悪さを生むことになる。

 一方で適切な状態では放置は一つの手段である。アメリカの対日政策は、軍事大国化を防ぐことと軍事力をアメリカでも使える程度に持たせることの二つを両立させることであり、これは成功している。

 改善は、改めるべき部分を間違えたときに悲惨である。アラブ諸国は社会主義から世俗主義までことごとく失敗した末に、同じ指導者でイスラム原理主義へと回帰したが、これは明らかな間違いである。

 一方で財投の廃止など本質的な部分に迫る改善は有用である。問題解決に際してはボーリングの一番ピンを倒すことを常に意識することが大切である。

 解決はその定義が双方で異なるときに果たされなくなる。たとえば在日コリアンの参政権問題について「それは日本人にとって何のメリットがあるのですか?」と問い、相手を論破することで議論の解決を宣言する人がいるが、それでは解決にならない。

 解決の前提にあるのは、双方が解決に対して抱くメンタルモデルが一致していることにある。いまだかつて私はそのような例を見たことがないのだが、これは丸山真男が言うところの「無責任の体系」なのだろう。

 解消についての失敗はさらに怖い。ナチスがユダヤ人問題の最終的な解消を掲げたとき、それはユダヤ人の消滅を意味した。どちらかが片方の消滅をもって解決とする考え方に私たちは与するべきではない。

 解消とは、相互が問題に対して抱くメンタルモデルをすり合わせて、共通の認識にいたる過程のことである。残念ながらこれについても、こうした例はまれなので、例示することすらできないのは残念だ。

 何はともあれ、問題解決における失敗はすべてメンタルモデルの違いをすり合わせられないことから生じることがわかった。問題解決に際して私たちには痛みを感じる繊細さと相手の強さを受け入れる胆力が必要になるだろう。