第一問
本来ひとつの企てでありながらも、それを巧妙に隠すという点で、いじめは社会行動としての病理であり、また元来遊びではないのにもかかわらず、愉快な遊びと称することで、いじめは遊びの病理でもある。
単なるままごとあそびのような遊びとこうしたものを区別するのは、それが受け手の心理状態と、周囲の会話などからの文脈によって「一面ではほんの冗談に見えて、一面では悪意ある企みと見える」ことである。
また、冗談であることを理解できない人間も世の中にはいる。アルペルガー症候群は、まぎれもなくそのうちの一つである。こうした疾患を抱えた人にとっては、理由なく行われる理不尽な行為に隠れた二つの意図を理解することができないので、余計に困難を招くであろう。
それが悪意であることに気づいたとしても、その原因がわからないのだから、それは終わることのない苦痛である。いかにしかそこから逃れることができるかも彼は考えることが出来ない。それは永遠の残酷な苦しみなのである。
無記名性の悪意、記名された対象という日本のいじめ特有の問題もまた存在している。いじめは、もはや顔のみえる相手同士の対決ではなく、だれかさえ分からないような人間と、記名されている自分との戦いになるのだ。
第二問
いじめをさまざまな分類に分けることは、その問題から逃げ、問題を複雑にするだけで放置するという最悪の結末をたどることがおおいので、ここではそのような考えは採用しない。
すべてのいじめに共通していることとしては、無記名性の悪意が記名された対象にたいして、日本型の無責任の体系の中で攻撃を繰り広げることにある。
これを、社会行動としての病理と遊びの病理の二側面から捉えることがそもそも無記名性の悪意を助長し、彼らから責任を取る義務を免除することになりかねない。
あらゆるいじめは、その行為に応じた罪が科されてしかるべきものであり、いじめであるとか、万引きであるとか、援助交際であるとか、そういった本来は犯罪であるような行為に対して、それを隠蔽し、遊びのなかに含めてしまうような言葉にすることによって、彼らの罪悪感を拭い去るような真似を助長してはならないだろう。
わたしたちは、日本人の精神性の奥深くにある、無責任の体系、本来責任を取るべき人間が、一切責任を取らないという異常な精神性について、問題行為に対する周囲からの糾弾会の開催も視野に入れながら、もうすこし考えなくてはならない。
本来ひとつの企てでありながらも、それを巧妙に隠すという点で、いじめは社会行動としての病理であり、また元来遊びではないのにもかかわらず、愉快な遊びと称することで、いじめは遊びの病理でもある。
単なるままごとあそびのような遊びとこうしたものを区別するのは、それが受け手の心理状態と、周囲の会話などからの文脈によって「一面ではほんの冗談に見えて、一面では悪意ある企みと見える」ことである。
また、冗談であることを理解できない人間も世の中にはいる。アルペルガー症候群は、まぎれもなくそのうちの一つである。こうした疾患を抱えた人にとっては、理由なく行われる理不尽な行為に隠れた二つの意図を理解することができないので、余計に困難を招くであろう。
それが悪意であることに気づいたとしても、その原因がわからないのだから、それは終わることのない苦痛である。いかにしかそこから逃れることができるかも彼は考えることが出来ない。それは永遠の残酷な苦しみなのである。
無記名性の悪意、記名された対象という日本のいじめ特有の問題もまた存在している。いじめは、もはや顔のみえる相手同士の対決ではなく、だれかさえ分からないような人間と、記名されている自分との戦いになるのだ。
第二問
いじめをさまざまな分類に分けることは、その問題から逃げ、問題を複雑にするだけで放置するという最悪の結末をたどることがおおいので、ここではそのような考えは採用しない。
すべてのいじめに共通していることとしては、無記名性の悪意が記名された対象にたいして、日本型の無責任の体系の中で攻撃を繰り広げることにある。
これを、社会行動としての病理と遊びの病理の二側面から捉えることがそもそも無記名性の悪意を助長し、彼らから責任を取る義務を免除することになりかねない。
あらゆるいじめは、その行為に応じた罪が科されてしかるべきものであり、いじめであるとか、万引きであるとか、援助交際であるとか、そういった本来は犯罪であるような行為に対して、それを隠蔽し、遊びのなかに含めてしまうような言葉にすることによって、彼らの罪悪感を拭い去るような真似を助長してはならないだろう。
わたしたちは、日本人の精神性の奥深くにある、無責任の体系、本来責任を取るべき人間が、一切責任を取らないという異常な精神性について、問題行為に対する周囲からの糾弾会の開催も視野に入れながら、もうすこし考えなくてはならない。