第一問 A

 Aにおいては、商業はたしかに諸国を結びつけるのだけれども、それは必ずしも諸国民を一個人一個人相互に結びつけるものではないということについて述べられている。

 これは今日の国際社会においてもいえることだが、諸国の交易によって、たしかに国と国とは近くなるのだが、その国を構成する国民同士では、必ずしも相互理解が十分になされていないという問題である。

 また、市場のメカニズムによって得られる利益は、健全な競争のなかにあるため、多くの相手国をしっかりと競争させてあげる土壌を整えることが大切であると考え、その偉大な失敗例としてオランダと中国としか交易していなかったため、通常の十倍の料金を詐取されていた日本を紹介している。

 これにより、商業が諸国を結びつける必要性のほかにも、しっかりとした考え方をもってして交易に望み、常に情報と知能という点において相手方に対して優越な立場をとらなければ一般法規が通用しえない国際社会の中では損しかしないと説いている。

B

 Bにおいては、商業においては、だまされないための工夫をしなければ、他の国々に出し抜かれて、だまされるより他なくなってしまうと説いている。

 逆説的ではあるが相手をだまし抜くためには、誠実そうに見せかけることと、几帳面に戦略を練ることが特に大切なことであると説き、粗野で野蛮な国ではほとんどこうした事実は知られていないので、比較的簡単にだまし抜くことかできるとまとめている。

 また、悪評のために失うものよりも、誠実そうに見せかけることによる利益のほうが大きいと判断することから、すぐに大きな利益をむさぼろうとはしない賢さをフランス人が持っていることも紹介している。

 商業はこのような点において、第一には人々の戦意を喪失させ、真の勇気を壊してしまい、第二には、財貨という共通のものさしを価値判断に用いることによって人々が同一の考えしかもてなくなることを危惧している。




第二問

 二つの資料文は、それぞれに知性と情報が国際的な交易においてその利益の増減を左右するという立場をとる点で共通している。

 また、情報を広く集め、知性を抑制を加えながらも交渉の中で生かしていく手段として、多くの相手国と交易をすることを推奨している。

 第二に、それぞれにおいて、当時の交易では、商業によって諸国が深く結び付けられ、もちつもたれつの関係になりつつあることを認めつつも、個人レベルでは諸国を構成する人々が、かならずしも交易相手国の人々を相互に理解していないことについても指摘している。

 当面の課題として、どちらの資料ともこの相互理解を深めることを掲げた上で、交渉においては抑制を加えられた知性によって、それほど過剰な要求を突きつけたりはせずに、悪評が立たないように気をつけ、むしろ、悪い評判が立たないことによる利益と、交渉ごとにおけるささやかな譲歩を最大限に生かしきることこそが、国際社会の中での賢い振る舞いであるとする。

 また、簒奪についても、両者ともそれは長期的な利益とはなりえないとする。少なくとも相手方に知性があるかぎり詐取は悪徳なのである。

第三問

 商業の欠点についての考え方は、双方に大きな隔たりが認められる。

 前者は、その欠点についてほとんど言及していない。商業における交流の発達はすべての問題を解決するといわんばかりの論調である。

 一方で後者は、その欠点についても述べている。まず、第一にはかつて、職人たちが手作業で商品作物を作り加工し販売し、国内だけですべての需要に供給側が対応できていた時代には、石工には石工に、農家には農家に課せられた神からの使命があり、それを果たすことで、目標となる成果のものさしは違ったものの多くの人々が一定の充足感を得ることが出来たのに対して、商業化が進んだことで財貨に価値が統一されたため、その多少によってしか人間の労働が評価されなくなったという問題点があるとする。

 第二には、商業により、人々が諸国との交易をはじめ。抑制の効いた知性を用いた交渉を学んだために、外国と戦う蛮勇が失われたことが問題だとする。これは今日の社会においては、むしろ美徳であるが帝国主義的には問題である。

第四問

 商業が人々の価値観を顕著に変えた一例としては、今日のグローバリズムがある。

 自由貿易によって、比較優位にある作物を生産することが、生産者側にとっても、需要のある消費者側にとっても相互の利益になりうるという理論は今日では世界を席巻しつつある。共産主義者はついに、一国社会主義論によるコミンテルンの独裁支配によっても、世界同時革命論を掲げた第四インターナショナルによっても、国境なき世界を実現することはかなわなかったが、資本主義の論理が皮肉にも彼らにとって理想であったような社会を現実のものとしている。

 古来より続いた帝国主義的支配の形態である国家ありて国民ありという帝国がつぶれ、国民ありて国家ありという国民国家が人々の存在証明を求める心情にマッチしてまたたくまに世界に広がったが、彼らもまた民族間の優越性をかけた帝国主義戦争に没頭し始めた。その後、こうした不毛な争いの中から独立を勝ち取った国々が移民国家・地域国家として成功を収め、彼らが経済面での主導権を握った社会でグローバリズムは瞬く間に世界を呑み込んでいったのである。

 しかし、グローバリズムもまた米国一極集中の帝国主義的支配に他ならないというひともいる。たしかにそういう側面はあるだろう。世界中のあらゆる国の大規模道路沿いにはアメリカの見紛うような大規模店舗が多数立地し、アメリカの企業は、瞬く間に多国籍企業に変貌した。つまり、全世界のアメリカ化こそがグローバリズムであると彼らは言う。もちろん、そのような意見もみとめよう。

 しかし、こうした歴史の推移のなかで、その支配の形態は、搾取の度合いという点において、ますますシステムを複雑にし、その残虐性はゆるやかになり、多くの人々は生活水準を高めながらそれなりに幸せな毎日を送っている。

 にもかかわらず、世界各国を少しずつ蝕んでいる偏狭なナショナリズムは何なのだろうか。私はいささかの不審の念を禁じえないのだが、グローバリズムによるあまりにもフェアネスな個人への能力評価が、存在意義を否定された人々による不満の噴出を生み出し、それが偏狭なナショナリズムという形で現れたのではないかと考える。

 グローバリズムは国内法が及ばない範囲で進む、エリートたちによる暴力的支配なのかもしれない。しかし、生活を進歩させてきたのも事実だ。