第一問

 公共的論争とは、多くの知識人や指導者にとって忌諱すべきものであった。政治的な問題は、単純には割り切れないために民衆の判断にゆだねることは出来ないと考えられていたからである。これは、きまぐれでばらばらな大衆が九十九パーセントの正答をたたき出す連中の、1%の間違いに気づくことが民主主義のすばらしさだと喝破したトグヴィルにより間違った考えであることが示されたが、それまでは少なくとも上流階級層においては、こうした考えが支配的であった。

 リップマンは、人々の短期的な興味をそそるようなニュースの配信を快くは思わなかった。きまぐれな判断で間違いに気づくことを信じた彼は、「もし信頼のおける適切なニュースが安定的に供給されないらば、民主主義に対する最も鋭い批判者たちが主張し続けてきたことが、すべて現実のものとなるであろう」とさえ彼は述べたのだった。

 リップマンは、ただ事実を伝えることのみに執着した。ここでも彼は、議論を巻き起こし、人々を時としてミスリードするのではなくて、むしろ人々に考える材料を与えることが大切だとして、氏の誠実さを示したのである。

第二問

 筆者の考えは、トグヴィルの言葉を借りれば「まぐれでばらばらな大衆が九十九パーセントの正答をたたき出す連中の、1%の間違いに気づくことが民主主義のすばらしさ」であるというものであり、九十九パーセントの正答をたたき出す連中の、1%の間違いに気づくためには、常に正しい事実のみが、ニュース提供者の主観や意志を排して供給させつづけることによってのみ、人々は民主主義社会の成員として成熟しうると考えた。

 なぜならば、ニュース提供者の主観や意志を排さなければ、人々は自ら考え、自律的に行動し、自省的に秩序を生み出すという民主主義社会における市民の役割は果たされなくなると考えたからである。

 もし、ニュース提供者たちによる議論が垂れ流され、論破したり論破されたりする光景を人々が眺めるだけであれば、彼らは自ら考えることを放棄するだろう。

 人々の短期的な興味をそそるようなニュースの配信もまた人々から、自ら深刻な問題についてゆっくりと考える余裕を奪うはずである。

 そうした観点からリップマンの態度を立派なものだとして評価しているのである。