第一問 ?

 フィヒテはいうまでもなく、国民国家論の第一人者であり、であるからにして単一の国民があってこそ、単一の国家があるという考えを持つ。

 しかし、ルナンは同じ民族の間でも、征服された地域や受けてきた教育の違いから異なる国家、異なる民族を同じ種族であるにも関わらず形成する例があることを紹介し、こうした一種美しいフィヒテの考えを懐疑的に捉える。また、別々の民族が集まり民族が形成された例を挙げ、国家国民論が同一性志向の危険な考えであるとする。

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 アンダーソンは、国家というものがその歴史のなかで持っている残酷な部分を、国家を支える国民が集団的に忘却するという無責任な集団心理によって美しさを与えられていると信じている。「国民」はたとえば、南フランスで行われた虐殺という表現で、虐殺においてフランス人が主導的に残酷な役割を果たしていたという本来の事実を隠蔽することを批判し、このようにして作られる民族の結束が危険極まりないものであるとする。

第二問 ?

 ルナンの主張に基づけば、国民にとって、歴史とは本来自分がどの種族に属していたかよりも重要な意味を持つ。

 なぜならば、人は自分がどの国民であるかについて考えたときに、自らの種族に関心を寄せることはほとんどなく、むしろどのような宗教、どのような価値観、そしてどのような生活習慣を持つかによって自らを定義づけるからである。

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 ルナンがいう「日々の人民投票」とは、人々が同じ民族に属しているという意識を、相互に強く結束されることで高めあうという行為である。個人は常に、生命を全肯定しなければ生きていくことが出来ない。同じように民族に属する個人は常に、国民国家を肯定し、仲間の存在を全肯定しなければ生きていけないものである。

 ここになぜ人々が、国民国家に執着するのかという答えがある。

 




第三問

 そもそも、歴史の忘却は、国民国家特有の要請である。古来よりの国家は、国民ありて国家ありではなくて、国家ありて国民ありであった。ローマ帝国が現在の国家の十二倍もの規模に及び、多くの種族の混合体であったことは資料Bでも紹介されているとおりである。これに対して国民国家は、国民ありて国家ありという思想であり、必然的に国民は一つでなくてはならなかった。

 ここに革命的変化をもたらしたのは、マルクスであり、彼は労働者に祖国はないと言い切った。レーニンは帝国主義論の中で覇権的支配は帝国主義の最終到達点であると鋭く批判したが、スターリンの一国社会主義論にせよ、トロツキーの世界同時革命論にせよ、いずれが選ばれたせよ共産主義国の歴史がその後、チベットの問題にも見られたような解放という名の支配の拡大であったことは、こうした国家観の逆転が影響する。

 今日のグローバリズムの広がりは、アメリカ中心に市場主義経済を広めるという点で経済的には異なるが、思想的にはマルクスのそれと軸を一にする。ボーダーレス化した世界で、人々が高度な生産力の中でさらに幸せになっていくことをどちらの論者も求め、人々の文化や宗教に関する柔軟性に関しては、ことごとく楽観的な見方をしているのも両者に共通している。

 また、アメリカのような移民国家やシンガポールのような地域国家が誕生し、彼らが経済的に優位になったことにより、国際的な国家に対しての考え方が変わりつつあるのも事実だ。

 こうした社会においては、自国民の歴史における反省点を認め、適切な範囲で自己批判をすることは交易を活性化させ利益を増やす行為になる。しかし、国民国家においてはそれは必ずしも利益にならないどころか、人々の分裂を引き起こし、結果として国家を壊滅的な方向に導く。

 ルナンが言う「日々の人民投票」とは、つまるところ人々がお互いに、「あなた格好いいですね」やら「あなたかわいらしいですね」ということと特に変わらない。つまり、仲間としての民族内で相手のすべてを肯定し、その肯定の背景として、自らとは異なる価値観をもつ民族を全否定するのである。

 それは、ルナンがかつて、黒人は劣った人種であるから支配するのが当然であると主張したことからも伺えるし、資料Cでアンダーソンが引用したように、彼が意図的にフランス人の蛮行を見過ごそうとしたことからも伺える。

 ルナンの考えは、自らと同民族の人々は間違いを犯さないという全肯定によってしか成り立ち得ない。なぜならば、否定をした時点で、仲間たちとの結束が打ち砕かれ、国民ありて国家ありの国民国家は壊滅するからである。

 これは少し冷静になって考えてみれば分かることで、「あなたはすばらしいですね」やら「あなたは美しいですね」やらいっている集団のなかで、一人だけそれを否定する人がいれば、すべては打ち砕かれるのである。

 アンダーソンはこの意識的な虚構の中に作られた「国民国家」を快く思っていない。構造的に、誰かを排斥し、自分の間違いを認めないことによって成立するシステムは本態的にゆがんだものであると捉えている。

第四問

 「国民」については、そのような属性にはなんらの意味もないと言う考え方が、「歴史」については、自らの属性の美化ではなく、先哲からの教訓という面においてのみ意味を持つという考え方があると私はかんがえる。

 参考までに、フィヒテ、ルナン、アンダーソンはそれぞれまったく異なった見方をしている。

 フィヒテは国民ありて国家ありという考え方をしており、一つの国民の集合は一つの国家を形成するという観点から、国民一人一人の結束、その要素としての国民の重要性を認めることにやぶさかではない。

 フィヒテの歴史観には、公平性などというものはまったく考慮されておらず、というよりも彼は考慮する必要性すらも感じておらず、ただ民族の軌跡を美化し、その民族が今日の支配的立場にあることをひたすらに正当化する道具としてのみ歴史はあるという考え方である。

 ルナンは一方で、過去の歴史上の国家が必ずしも国民国家とはいえなかった点や、被支配階級においても、占領側の都合により、宗教や価値観、さらには生活習慣においてさえも分断されたことについて述べている。こうした点では彼の方がフィヒテよりは冷静であるといえる。

 しかし、実際のところルナンの歴史観も、フィヒテのそれと五十歩百歩という側面があり、たとえば彼は自民族の犯した失敗について、その責任を認めようとせずむしろ回避しようとしたことがアンダーソンの研究により明らかになっている。また、占領については基本的に肯定的である。

 アンダーソンは、国民については、国民による国家も、国家による国民も否定はしていない。ただ、そのような形態があることを冷静に受け止めた上で、それを「自由主義」や「ファシズム」のような人為的なシステムとしてではなくて、むしろ「宗教」や「文化」のようにそもそもあるものだとして考えたほうが自然であるという立場をとる。

 歴史については、自由主義経済の国の住人にふさわしく、たとえ自国民の起こした悲劇であれその責任を認めることに積極的な態度をとる。今日のグローバル化された経済ではそれが自己の利益を最大化するという観点からであろう。その点では、自己の利益を最大化するという目的は、三人に共通している。

 三人がそうであったように、ここでは私も自己の利益を最大化するために「国民」についての考えと「歴史」の捉え方について述べたい。

 まず、私は「国民」については、そのような属性には何らの意味もないと考える。今日の社会においては、相手が自らの価値観を認め、寛容である限りは相手の価値観も認めるべきだし、相手が寛容でなかったとしても、自らの価値観を押し付けるのではなく、違いを認め合う勇気のもたらす利益について述べたほうが賢いと私は考えている。このような土壌があってこそ、グローバル化された社会のなかで、個人の付加価値創造能力という一つのものさしによってのみの人物評価が可能になると私は考えているからである。

 「歴史」については、今日世界中でグローバリデーションの反動として巻き起こっている偏狭なナショナリズムにゆだねるだけでは何らの解決にもならないと考える。ああいった活動に参加する人々は個人としての存在意義がない人たちであり、彼らはアイデンティティーとなりうる価値が無いために、不良が時としてここぞとばかり権力の犬に成り下がるように、国家という何者にも侵されがたい存在と自己とを同一化し、その陶酔のなかでかろうじて自分自身の存在意義を見出すのである。私たちは歴史を、自らを省みるための先哲からの遺産として学ぶべきである。同じ民族であれ、違う民族であれ、蛮行からは人間がいかに残酷になりうるかを学び、自分だけはそうならないようにという一貫した倫理観を身につけるための糧にしなければならない。