国家の役割は小さくあるべきである。なぜならば次に述べるように大きな政府の理想はたいていの場合実現しないためである。強いてたとえるならば、トイレ掃除のような政治が理想である。ないと困るがあることには気づかないような政治の時代ほどすばらしいものはない。

 統治にあたって、韓非子は他人の不幸を楽しみ自らの利益とすることを諌めている。このことは、ライブドア事件以降の大きな政府路線への系統について考えさせる。堀江は確かに間違ったが、それは大きな政府の正しさの証左とはいえないのではないかとも考える。

 孟子は方ではなく徳による統治を主張する。多額の税を取り立てる大きな政府はまさしく今日の日本の姿と同じである。

 老子は理想郷としてあくせくしなくとも幸せに暮らせる社会を展望する。今日の日本においては、政府が仕事を作り出し、無意味な仕事に人々は振り回されている。効率化を進め過労死以外の死に方を認めるべきだ。

 福祉にかんしていえば、資料四の社会全体の福祉と既得権を認めないことはもはや理想郷でしかない。労働を提供する義務を~とあるが、福祉の充実はますます人々をばらばらにしていった感がある。

 私はフリードマンの言説に強い共感を覚えた。公務員とは新たな支配階級にすぎず、政府の肥大化=民間を押しつぶす構造は国債発行額に伴う中小企業向け貸付の現象から見ても顕著である。

 また、資料六は政府か民間かという不毛な対立を超えた新しい社会起業の可能性を提起している。このような工夫によりとぼしい予算であれ、よりよい福祉を提供することができるという考え方は私も共有できる。

 福祉における国家の役割は、今日ではことさらに予算を増やすことばかりが叫ばれるが、そんなことではない。乏しい予算で最大の効果をあげられるように民間に自由を耐えて、国家は何もしないことが国家の役割である。

 また統治についても、人間の悲しい性で大きな政府は必ずや腐敗する。であるからにして何もしないことこそがここでも国家が果たすべき最高の役割である。

 公務員は怠惰であるといわれるがそうであっても良い。おおいに怠惰であってよい。

 効率的システムは放置による均衡により生まれる。自己利益保存ばかりの人がかならずしも市場の勝者になれるわけではない。自由のもたらす豊かさを信じるべきだ。