第一問

 Aについて端的に述べると、人というのは、自分が直接に関係することについては、他人が関係することに対してよりもはるかに深い関心を持つということである。

 また、自分がもっとも一番良く自分のことを知っているというのはありふれた誤解の一種であり、他人が私を見るように、私は私を見なければならないのである。

 それは、つまり、自分自身にとっては全世界であるかもしれないようなことが、自分以外にとってはとるに足らない一部分であることを踏まえて行動をすることと同義である。

 他人の感情を慮ることは困難なことである。私たちが、他人の感情について考えることができるのは、主に私たちの想像力の範囲内においてのみの話である。なぜならば、想像力によってのみ私たちは彼と同じ苦しみの中に身をおくことができるからであり、そのなかでしか彼の感情を理解することは出来ないからである。そして、このような想像力を生かした思考によってのみ、私たちは彼の苦しみを擬似的に味わい、そのなかで震えおののくような気持ちになるのである。

 ある種の神経質な人ならば、他人の傷口を見たときに、自分の身体がうずくような妙な感覚にとらわれたことがあるだろう。これはその感覚に似ている。シラーの詩にもあるように、私たちが神の翼の下にいる兄弟たちであるという同胞感覚がこうした痛みとなって現れるのである。

 社会はつまり、互いに害を与え、侵害しようといつまでも待ち構えている人々の間では成立しえない。慈悲なしにも人は生きることができるが、正義なしには人は生きることはできないというのがAの結論である。

 一方でBは義務の大切さについて述べている。義務とはつまり、生物の周期性のような日常的にもので、これをもつからこそ人は絶えず日常的に道徳的であるのだとしている。

 また、規則は命令するという性質の大切さについても述べている。規則による命令の正当性を支えるのは、規則の背景にある権威であり、規則そのものにおける正しさではない。であるからにして、権威を否定する以前に、まずは権威を感知、認知、識別、する能力の欠如こそがここでは問題になる。

 規則の役割は、私たちの欲望を抑制させる部分にある。このことによって、社会的協同が正しくなされ、公共の利益が増大し、結果として個人の利益もいっそう増大するのである。

 自己に打ち勝つ能力は、主体的な意志の出現にとっては必要不可欠である。封建社会においては、旧来的因習がこうした能力を与えるが、民主主義社会においては、そうしたものかないため、人々の欲望にはえてして歯止めがかからなくなりがちである。

 おのおのは民主主義社会においても、自己の能力にふさわしい使命を発見し、権力や知力や財貨によってではなくて、身の丈にあった尽力をすることによって現世の限りない幸福を手に入れなくてはならない。

 もちろん、これが社会の停滞につながってはならない。しかし、今日の社会におけるあまりにも利己主義的な傾向は、子供にまで悪影響を及ぼし、もはや人間の尊い神性ではなくて、動物の汚らしい欲望への執着しか感じさせ得ないものになっている。

第二問

 まず、私は、Bにおいて述べられている三つの点について違和感を禁じえない。

 第一に、ここでは規則による命令の正当性を担保する権威についてである。フロムは、ナチスの独裁政治の出現に際して、人々は力の正しさによってではなく、力の強さによって魅了されたために悪への誘惑は瞬く間に大きな流れと述べた。これと同じような悲劇が、Bの主張の正当性を認めた場合において、旧来的な因習を残す封建社会においては起こるのではないかと私は考える。つまり、権力を味方にした利己主義者による暴走が危惧される。

 わたしはむしろ、ハイエクやフリードマンが行ったような自生的秩序を支持したい。Aにも述べられたように公共の利益は個々人の利益を増大させるので、欲望を放任していてもいずれは均衡に達し、権威なき平和がもたらされるだろう。

 第二に、民主主義社会においても、子供たちにはあくまでも身の丈にあった幸福を教えるべきであって、限りない成功への欲望などを扇動することがあってはならないとする考え方に違和感を持つ。

 まず、子供への教育の機会を与えることは、子供たちに努力による階級移動の機会を与えることと同義であることを確認したい。

 努力による階級転覆の可能性を認めるからこそ、民主主義社会においては、機会の平等の名の下に、社会福祉を受益者負担・自助の精神・申請主義(権利の上に眠る者には法で認められた権利の受益者にはなれないとする考え方)の三原則の下で運用されることが許されるのであり、もし子供たちに出身階級による身の丈にあった目標のみを教えるならば、民主主義社会にも、もちろん子供たちが受ける教育にもなんらの意味を見出せないのである。民主主義社会の大切な原理は、私たちは努力さえし、結果さえ残せば、何者にもなれるという点で封建制社会の絶望的な不平等とは異なった自由のなかで生きているということである。こうした点を否定してしまっては、民主主義社会の意味がなくなる。

 第三に、最後になるが、法による支配ではなく、法治主義のような強権的な支配で人間を操作するやり方には限界がある。私たちはだれであっても、相手の心を完全に慮ることはできないのだ。自由のみが人を秩序づける。

第三問

 エミールならば、おそらくモラルの低下や企業の不祥事は、カバナンスとコンプライアンスの意識が不足しているところに問題があるというだろう。しかし、アダム・スミスの意見は違うし、言うまでもなく私の意見も異なるものだ。

 まず、エミールの考え方は、典型的な法治主義の考え方である。一方で、アダム・スミスや私は法の支配の観点からこの問題を考える。つまり、自然法として人間に与えられた天からの権利を、悪辣な権威によって都合よく作られた規則の上におくという考え方を採る。

 アダム・スミスは今日では「神の見えざる手」を主張した自由放任主義を主張する代表的な経済学者としてむしろ知られている。

 しかし、彼の原点にあったのは、神の見えざる手が、人々の道徳心によって支えられているという考え方であった。これは、エミールが理想としているような強権的な支配によってではなく、同じく自由放任型の経済学者であるハイエクやフリードマンが提唱したような自生的秩序による道徳心が人々の根底にはあったとする考えである。

 今日の不祥事は、なにもカバナンスとコンプライアンスの意識が不足しているところに問題があるわけではない。もし仮にそれを徹底したとしても、人間の劣悪なる本性は、いずれ、ふとしたときに徹底された法律の抜け目を見つけ出し、さらに悪辣な手段を開発するだけである。

 むしろ、強権的な権威があることにより、悪辣な人間がそれを利用し、自由で公平な競争の原理が損なわれた上に、利己主義者たちは独占された利益をむさぼるという今日の日本に見られるような最悪な形態を生み出しかねない。

 アダム・スミスは神なき資本主義に、こうした不祥事やモラルの低下の原因を求めた。私もこれに共感するものである。人間が行動をする際に、法律や規則によってではなく、神が私を見ているのだという一種の強迫観念にも近い感情があれば悪辣な手段でのビジネスを思いとどまることができるはずである。それがたとえ現世的な利益をおおいに損なう決断であったとしても、天の国を信じるものであればその程度の犠牲など考慮に値しない。さらには不思議なことであるが、内的倫理にしたがっていたほうが、人々の返報性によるものなのか良い結果をもたらすことが多いのである。これこそが「神の見えざる手」なのだ。