第一問
日本人の同質性志向はすさまじいものがある。スーパーの陳列をみれば、そのことが良く分かる。同じサイズのりんごがパック詰めにされ、本来きちんと育てたきゅうりなら曲がっているはずなのに、きれいにまっすぐとなって売られている。キャベツにも虫食い一つついておらず、卵には独特のざらざらとした手触りがない。
こうした同質性へこだわりは、近代化に向けて長い歴史をもち、ルネサンスの洗礼を受けざるを得なかったヨーロッパや、急速な市場経済化を進めざるを得なかったために奇才を重用せざるを得なかった中国では見られない光景である。
日本の歴史を考えると、有史以来、日本の統治機構はひたすらに同質性を求めてきた。全国の武家に対しては同じ規則が適用され、寺小屋でも統一された規格に基づく計算を学び、それは工業化を果たした後も従順で作業効率の良い労働者を生み出すための学校教育として続けられてきた。異端児を不良品として排斥することにより、周囲との結束を深めながら、グロテスクなほどの同一であること、普通があること、平均的であることのこだわりを胸に抱き続けたのだ。
私たちは、いわば違いを認め合う勇気によって生まれる豊かさを経験したことがない。アメリカでは七十年代から始まった製造業の空洞化と、九十年代以降の金融業とソフトウェア産業の興隆により否応なしにそうしたパラダイムシフトを経験せざるを得なかった。
しかし、日本ではもはや脱工業化社会への脱皮が社会的要請となりつつある今日でも、なまじ製造業に対する執着が強すぎるばかりに、研究所国家に徹するであるとか、コンサルティングに徹するであるとか、投資に徹するであるとか、そういった大胆な方針転換が出来ないまま今日に至っている。多様性のもたらす豊かさを実感するためには、まず教育制度や社会的階級制度におけるものさしを一つではなく複数にする必要がある。海軍士官学校に行く人も、師範学校に行く人も、帝国大学に行く人も同じように立派であったかつての教養人社会を復興させるほかない。
第二問
日本人の同質性に対する執着は、幼年期における教育によって植えつけられた根底的な不安からもたらされたものであると私は考える。
たとえば、親は他の子供と違う遊びをし始めたことに心配を抱き、時には他の人と別のことをしようという挑戦を認めることなく、遊びの道具を取り上げたりすることによって、それを禁止することさえある。筆者は、ままごと遊びが大好きな子供で、女の子が買うような子供用の掃除機などを使って喜んでいたが、今日ではこうしたライフスタイルはワーク・アンド・ライフバランスの実現や、男女共同参画社会の発展という観点から積極的に推奨されている価値観である。しかし、当時は非常に異端視されたものである。
こうした傾向、特に子育て期における傾向を変えるためには、教育制度そのものを抜本的に見直す必要がある。大切なことは、教員や保護者が価値観の押し付けをやめ、子供をもたらされた結果のみで時には評価し、時には助言をするという姿勢である。これらの態度は、大人の社会では当然のことなのだ。しかし、学校においては努力が神聖視される傾向と、異なった方法論で成果を挙げることへの蔑視があるために、かならずしもそうではない。先生と異なる解法で問題を解いた生徒が怒られたこともある。
これでは、彼らの優れた点、創造への気性は十分に生かされないと私は考えている。子供たちの小さな発見にでも気付いてあげられるために本当ならば一対一の個別指導が望ましい。しかし、これは予算的に不可能なことであるので、替わりの案として以下を提案したい。
まず、三十分は衛星授業を受ける。次に三十分はテストを受ける。ここで、解答を確認し、残りの三十分は休み時間兼ライブチャットでの質問時間である。休み時間に質問するような生徒はそれほど多くないし、まして、三十分丸々使うわけではない。しかし、これだけあれば意欲のある生徒なら十分な質問ができるし、大学生のアルバイトを使えば予算も安く済む。さらにすべてパソコンで行えるから欠席があっても埋め合わせができるし、地方間格差もない。このような公教育システムを義務教育でぜひとも取り入れるべきである。
第二に高校以降の教育システムを大胆に転換することである。私は現在の旧制中学を頂点とする県立高校の序列に強い違和感を抱いている。
具体的には、旧制中学以外の学校については、情報技術か、会計処理か、英語学習に特化した学校に改変し、大学についても師範学校や海軍士官学校など、東大に行くのとは別のものさしではかられるような特色のある学校を増やす方針にすべきだと思う。また、国立大学の私立学校法人への売却を進め、教員評価を厳しくし、かつての理化学研究所のように単体で利益を計上し、その利益を基礎科学研究に配分するようなシステムを作ることで、国の財政的な負担を軽減させた上で、ベンチャー企業を作るような工夫も必要だと考える。
また、サテラインテストゼミ化で必要のなくなった小中学の教員は、一人当たりGDPが日本の一割ほどのBRICsやトルコ、あるいはウクライナをはじめとする旧東欧圏で「日本行き学校」の教員として、地域の購買力平価に合わせた賃金で、物理学や基礎数学、日本語などを能力のある貧困層のために教え、あわゆくば天才的な才能を持った研究者を日本に招聘する手筈を整えるスカウトマンとして全世界で活躍すべきである。三百万人あまりの教職員が海外に飛ぶことによる、為替調整効果は計り知れないものがあり、かならずや円安が生まれ、製造業も少しは息を吹き返すであろうし、日本の知識人層の中に海外への造詣が深い層が生まれることは歓迎すべき変化である。また、日本の科学技術も知的移民の導入で大いに発展することであろう。
このように、私たちは多様性の豊かさを信じることでまだまだ発展し、第二の高度経済成長期を掴み取るチャンスに恵まれているのである。イギリスのエコノミスト誌は「痛い日本」というタイトルで、痛烈な批判を繰り広げたが、とはいえ日本の省エネ技術が世界に普及すれば温室効果ガスは七割削減され、中国の水問題も、日本のろ過技術を用いればかなり楽に解決できるなど、その技術がもつ潜在的な能力は高く評価している。
私たちにかけているのは、世界に打って出るための勇気、希望を捨て絶望に立ち向かう勇気、そして違いを認め合う勇気なのである。この三つを携えるために、私の提案が有効であることを信じている。
第三問
日本は伝統的に「迎賓」の文化を大切にしてきたと資料Cでは書いている。しかし、これが事実なのかさえ疑わしい。
たしかに、日本人は自分よりも強い相手か、あるいは自分と同質の相手に対しては「迎賓」の文化を持って接する。ヨーロッパ人や、身なりが良く似た日本人であれば、誰であり暖かく迎え入れるはずである。
とはいえ、中国人や朝鮮人、はたまた身なりの異なる日本人(具体的な例示をすれば被差別部落民など)に対して、丁重にもてなしたということはまったく聞かない。日本人の対人スタンスとは、基本的に極度のおもねりか、極度の思い上がりか、そのどちらかによって特徴付けられるものなのである。
それはどちらも相手に対して公平な態度とはいえないし、ましてそのような態度を相手は求めていないだろう。誰だって、フェアな立場で話をしようとしているときに、丁重にもてなしながらも本心を決して明かそうとはしない慇懃無礼に直面すれば、呆れ果て失望を隠せないはずである。まして、礼さえ伴わなければ事態はさらに悪化する。
また、日本人の「迎賓」に対する考え方をよりいっそう複雑にしているのは、恥の文化であろう。わび茶の創始者である千が将軍に楯突いたために切腹したという話は今日では良く知られているが、海外で紅茶販売店の店主が女王に楯突いて自殺したなどという話はまったく聞いたことすらない。ここに日本人の文化の特殊性がある。
この恥の感覚は、高度成長期以後も続いた。企業戦士として働いてきたのにアフリカに赴任させられるのは恥であるという感覚が色濃く反映されているのが山崎豊子の「沈まぬ太陽」である。現在、資源外交の観点から中国人が、白物家電を富裕層に売りつけるために韓国人が、それぞれ積極的にアフリカ諸国に乗り込んでいるが、彼らはそれぞれの母国を背負うエリートとして、アメリカ勤務やヨーロッパ勤務の人々ともかわらずに喜びをもって働いているし、下手に自分を卑下している様子もない。
この、「迎賓」の文化の国におけるダブルスタンダードが今日の国際社会に対する閉鎖性を生み、日本に長期的な停滞をもたらしていると私はかんがえている。
違いを認め合うのも、幼児期から徹底した訓練において、その重要性を知らしめなければ、日本人の精神性は変わらないと思う。なぜなら、時代の精神は、コンビニの店員から、無人駅の切符を切る車掌、はたまた大学の教官に及ぶまで、外国人か接するありとあらゆる人々に影響を及ぼすものであるためだ。
まずは、脱工業化社会実現のために、知識集約型産業への移行を果たさなければならない。であるからにして、教育システムもいままでの暗記させた内容を吐き出させる形式ではなく、自ら考えた内容を評価されるものでなければならない。
とはいえ、基本的な操作の理解と習得がなければどうにもならないため、義務教育段階では現在の高校学習内容までの基本的な操作のみを徹底的に覚えこませるべきだろう。数学ならば、解法ではなく、ひたすらに計算の処理だけをさせる。英語ならば、ひたすら文法問題だけを教える。国語ならばひたすら、漢字と語彙、および古文・漢文の文法・句法と語彙を暗記させる。社会科と理科に関しては、流れの理解のみを重視させる。こういった段階も必要なことは認めなくてはならない。英語での吹き替え授業を検討してもいい。
しかし、高校に入った段階で、進学・会計・情報技術・英語のいずれかに特化させ、 進学に関しては、小論文的国語、小論文的英語、小論文的数学、小論文的社会、小論文的理科に特化した勉強をいままでの基礎操作をいかしながらさせ、会計・情報技術・英語については、それぞれより高い資格の取得を目指して、国際社会の中でも一生食べるのに困らない技能を身に付けさせるべきだろう。それこそが、労働組合の求める格差社会の解消のためにはもっとも必要なことである。これも、英語での吹き替え授業を検討してもいいだろう。米国公認会計士資格の取得を目指す学校があれば、進学校志望者でも入学するかもしれない。
また、優れた部分を伸ばすための工夫も必要である。特定の分野に対して優れた業績を残した生徒に対して、そういった生徒を集めて専門教育をさせる機関も必要になるだろう。いわゆる、ギブテッド教育のための専門機関を設け、全世界からギフテッドを集めることで、所在無い彼らの孤独を、誰かから必要とされているという使命感に変えることができると私は考えている。
彼らの特異な才能を汚すような犯罪行為についても厳しく取り締まりをかけなくてはならないだろう。理不尽な暴行や盗難に関しては、警備員を配置し、しっかり取り締まりを行うべきである。言葉の入れ替えのみで、一切の取り締まりを行わない今日の行政は無責任極まりない。今日の労働市場では建設業を廃業に追い込まれた人などが、わりかし肉体的な健康を保ったままで失業者として存在しているために教員の二分の一~三分の一程度の人件費で十分に供給されている。一クラス、一警備員、サテラインテストゼミは一考の価値はある政策である。
また、これが一番大切なことだと思うのだが、多くの人が違いのもたらす豊かさを実感することである。
日本人は、いままで同質性の中でぬるま湯の中に浸かってきたような印象を受ける。特に公共部門においては、国際的な競争にさらされなかったためにその傾向が極めて顕著に見られる。多くの企業が国際化への対応を忌避する経緯としては、実はぬるま湯に浸かって、日本というそれなりに大きな市場でなぁなぁと生活をしていきたいという思いが透けて見える。
先日、中国の「人民日報」を読んでいたところ、中国人は日本人の勤勉さと約束や規則をしっかり守る部分を見習うべきだという論説があって、どうにもこそばゆい気分になってしまったのだが、いまの日本人はそれほど競争意欲にあふれた勤勉な人たちではなくなってしまったし、さらに言えば約束や規則に基づいた経済活動をしているというのは、あくまでも表向きの話である。
実刑が下されたライブドア事件に対して、数十倍も規模が大きく、悪質かつ恣意的であった日興コーディアルの事件は、ほとんど問題にされなかった。今日の日本では徴税をはじめとして、そこらに恣意的な行政による不公平が生まれており、それが人々を傷つけずにはいられなくなっている。こうした、強力な支配者対被支配者の関係を公務員と国民のあいだにもたらしたのは、まさしく日本人は異なる文化・価値観を一切認めないという排他性にある。それは優れた技術を海外から受け入れるというのとは違う、もっと人間的な部分における関わりの問題である。こうした、お上が言うことはすべて正しく、支配される安泰が好ましいという日本人の性質が変わらないかぎり、多文化主義など遠くになりにけりである。
日本人の同質性志向はすさまじいものがある。スーパーの陳列をみれば、そのことが良く分かる。同じサイズのりんごがパック詰めにされ、本来きちんと育てたきゅうりなら曲がっているはずなのに、きれいにまっすぐとなって売られている。キャベツにも虫食い一つついておらず、卵には独特のざらざらとした手触りがない。
こうした同質性へこだわりは、近代化に向けて長い歴史をもち、ルネサンスの洗礼を受けざるを得なかったヨーロッパや、急速な市場経済化を進めざるを得なかったために奇才を重用せざるを得なかった中国では見られない光景である。
日本の歴史を考えると、有史以来、日本の統治機構はひたすらに同質性を求めてきた。全国の武家に対しては同じ規則が適用され、寺小屋でも統一された規格に基づく計算を学び、それは工業化を果たした後も従順で作業効率の良い労働者を生み出すための学校教育として続けられてきた。異端児を不良品として排斥することにより、周囲との結束を深めながら、グロテスクなほどの同一であること、普通があること、平均的であることのこだわりを胸に抱き続けたのだ。
私たちは、いわば違いを認め合う勇気によって生まれる豊かさを経験したことがない。アメリカでは七十年代から始まった製造業の空洞化と、九十年代以降の金融業とソフトウェア産業の興隆により否応なしにそうしたパラダイムシフトを経験せざるを得なかった。
しかし、日本ではもはや脱工業化社会への脱皮が社会的要請となりつつある今日でも、なまじ製造業に対する執着が強すぎるばかりに、研究所国家に徹するであるとか、コンサルティングに徹するであるとか、投資に徹するであるとか、そういった大胆な方針転換が出来ないまま今日に至っている。多様性のもたらす豊かさを実感するためには、まず教育制度や社会的階級制度におけるものさしを一つではなく複数にする必要がある。海軍士官学校に行く人も、師範学校に行く人も、帝国大学に行く人も同じように立派であったかつての教養人社会を復興させるほかない。
第二問
日本人の同質性に対する執着は、幼年期における教育によって植えつけられた根底的な不安からもたらされたものであると私は考える。
たとえば、親は他の子供と違う遊びをし始めたことに心配を抱き、時には他の人と別のことをしようという挑戦を認めることなく、遊びの道具を取り上げたりすることによって、それを禁止することさえある。筆者は、ままごと遊びが大好きな子供で、女の子が買うような子供用の掃除機などを使って喜んでいたが、今日ではこうしたライフスタイルはワーク・アンド・ライフバランスの実現や、男女共同参画社会の発展という観点から積極的に推奨されている価値観である。しかし、当時は非常に異端視されたものである。
こうした傾向、特に子育て期における傾向を変えるためには、教育制度そのものを抜本的に見直す必要がある。大切なことは、教員や保護者が価値観の押し付けをやめ、子供をもたらされた結果のみで時には評価し、時には助言をするという姿勢である。これらの態度は、大人の社会では当然のことなのだ。しかし、学校においては努力が神聖視される傾向と、異なった方法論で成果を挙げることへの蔑視があるために、かならずしもそうではない。先生と異なる解法で問題を解いた生徒が怒られたこともある。
これでは、彼らの優れた点、創造への気性は十分に生かされないと私は考えている。子供たちの小さな発見にでも気付いてあげられるために本当ならば一対一の個別指導が望ましい。しかし、これは予算的に不可能なことであるので、替わりの案として以下を提案したい。
まず、三十分は衛星授業を受ける。次に三十分はテストを受ける。ここで、解答を確認し、残りの三十分は休み時間兼ライブチャットでの質問時間である。休み時間に質問するような生徒はそれほど多くないし、まして、三十分丸々使うわけではない。しかし、これだけあれば意欲のある生徒なら十分な質問ができるし、大学生のアルバイトを使えば予算も安く済む。さらにすべてパソコンで行えるから欠席があっても埋め合わせができるし、地方間格差もない。このような公教育システムを義務教育でぜひとも取り入れるべきである。
第二に高校以降の教育システムを大胆に転換することである。私は現在の旧制中学を頂点とする県立高校の序列に強い違和感を抱いている。
具体的には、旧制中学以外の学校については、情報技術か、会計処理か、英語学習に特化した学校に改変し、大学についても師範学校や海軍士官学校など、東大に行くのとは別のものさしではかられるような特色のある学校を増やす方針にすべきだと思う。また、国立大学の私立学校法人への売却を進め、教員評価を厳しくし、かつての理化学研究所のように単体で利益を計上し、その利益を基礎科学研究に配分するようなシステムを作ることで、国の財政的な負担を軽減させた上で、ベンチャー企業を作るような工夫も必要だと考える。
また、サテラインテストゼミ化で必要のなくなった小中学の教員は、一人当たりGDPが日本の一割ほどのBRICsやトルコ、あるいはウクライナをはじめとする旧東欧圏で「日本行き学校」の教員として、地域の購買力平価に合わせた賃金で、物理学や基礎数学、日本語などを能力のある貧困層のために教え、あわゆくば天才的な才能を持った研究者を日本に招聘する手筈を整えるスカウトマンとして全世界で活躍すべきである。三百万人あまりの教職員が海外に飛ぶことによる、為替調整効果は計り知れないものがあり、かならずや円安が生まれ、製造業も少しは息を吹き返すであろうし、日本の知識人層の中に海外への造詣が深い層が生まれることは歓迎すべき変化である。また、日本の科学技術も知的移民の導入で大いに発展することであろう。
このように、私たちは多様性の豊かさを信じることでまだまだ発展し、第二の高度経済成長期を掴み取るチャンスに恵まれているのである。イギリスのエコノミスト誌は「痛い日本」というタイトルで、痛烈な批判を繰り広げたが、とはいえ日本の省エネ技術が世界に普及すれば温室効果ガスは七割削減され、中国の水問題も、日本のろ過技術を用いればかなり楽に解決できるなど、その技術がもつ潜在的な能力は高く評価している。
私たちにかけているのは、世界に打って出るための勇気、希望を捨て絶望に立ち向かう勇気、そして違いを認め合う勇気なのである。この三つを携えるために、私の提案が有効であることを信じている。
第三問
日本は伝統的に「迎賓」の文化を大切にしてきたと資料Cでは書いている。しかし、これが事実なのかさえ疑わしい。
たしかに、日本人は自分よりも強い相手か、あるいは自分と同質の相手に対しては「迎賓」の文化を持って接する。ヨーロッパ人や、身なりが良く似た日本人であれば、誰であり暖かく迎え入れるはずである。
とはいえ、中国人や朝鮮人、はたまた身なりの異なる日本人(具体的な例示をすれば被差別部落民など)に対して、丁重にもてなしたということはまったく聞かない。日本人の対人スタンスとは、基本的に極度のおもねりか、極度の思い上がりか、そのどちらかによって特徴付けられるものなのである。
それはどちらも相手に対して公平な態度とはいえないし、ましてそのような態度を相手は求めていないだろう。誰だって、フェアな立場で話をしようとしているときに、丁重にもてなしながらも本心を決して明かそうとはしない慇懃無礼に直面すれば、呆れ果て失望を隠せないはずである。まして、礼さえ伴わなければ事態はさらに悪化する。
また、日本人の「迎賓」に対する考え方をよりいっそう複雑にしているのは、恥の文化であろう。わび茶の創始者である千が将軍に楯突いたために切腹したという話は今日では良く知られているが、海外で紅茶販売店の店主が女王に楯突いて自殺したなどという話はまったく聞いたことすらない。ここに日本人の文化の特殊性がある。
この恥の感覚は、高度成長期以後も続いた。企業戦士として働いてきたのにアフリカに赴任させられるのは恥であるという感覚が色濃く反映されているのが山崎豊子の「沈まぬ太陽」である。現在、資源外交の観点から中国人が、白物家電を富裕層に売りつけるために韓国人が、それぞれ積極的にアフリカ諸国に乗り込んでいるが、彼らはそれぞれの母国を背負うエリートとして、アメリカ勤務やヨーロッパ勤務の人々ともかわらずに喜びをもって働いているし、下手に自分を卑下している様子もない。
この、「迎賓」の文化の国におけるダブルスタンダードが今日の国際社会に対する閉鎖性を生み、日本に長期的な停滞をもたらしていると私はかんがえている。
違いを認め合うのも、幼児期から徹底した訓練において、その重要性を知らしめなければ、日本人の精神性は変わらないと思う。なぜなら、時代の精神は、コンビニの店員から、無人駅の切符を切る車掌、はたまた大学の教官に及ぶまで、外国人か接するありとあらゆる人々に影響を及ぼすものであるためだ。
まずは、脱工業化社会実現のために、知識集約型産業への移行を果たさなければならない。であるからにして、教育システムもいままでの暗記させた内容を吐き出させる形式ではなく、自ら考えた内容を評価されるものでなければならない。
とはいえ、基本的な操作の理解と習得がなければどうにもならないため、義務教育段階では現在の高校学習内容までの基本的な操作のみを徹底的に覚えこませるべきだろう。数学ならば、解法ではなく、ひたすらに計算の処理だけをさせる。英語ならば、ひたすら文法問題だけを教える。国語ならばひたすら、漢字と語彙、および古文・漢文の文法・句法と語彙を暗記させる。社会科と理科に関しては、流れの理解のみを重視させる。こういった段階も必要なことは認めなくてはならない。英語での吹き替え授業を検討してもいい。
しかし、高校に入った段階で、進学・会計・情報技術・英語のいずれかに特化させ、 進学に関しては、小論文的国語、小論文的英語、小論文的数学、小論文的社会、小論文的理科に特化した勉強をいままでの基礎操作をいかしながらさせ、会計・情報技術・英語については、それぞれより高い資格の取得を目指して、国際社会の中でも一生食べるのに困らない技能を身に付けさせるべきだろう。それこそが、労働組合の求める格差社会の解消のためにはもっとも必要なことである。これも、英語での吹き替え授業を検討してもいいだろう。米国公認会計士資格の取得を目指す学校があれば、進学校志望者でも入学するかもしれない。
また、優れた部分を伸ばすための工夫も必要である。特定の分野に対して優れた業績を残した生徒に対して、そういった生徒を集めて専門教育をさせる機関も必要になるだろう。いわゆる、ギブテッド教育のための専門機関を設け、全世界からギフテッドを集めることで、所在無い彼らの孤独を、誰かから必要とされているという使命感に変えることができると私は考えている。
彼らの特異な才能を汚すような犯罪行為についても厳しく取り締まりをかけなくてはならないだろう。理不尽な暴行や盗難に関しては、警備員を配置し、しっかり取り締まりを行うべきである。言葉の入れ替えのみで、一切の取り締まりを行わない今日の行政は無責任極まりない。今日の労働市場では建設業を廃業に追い込まれた人などが、わりかし肉体的な健康を保ったままで失業者として存在しているために教員の二分の一~三分の一程度の人件費で十分に供給されている。一クラス、一警備員、サテラインテストゼミは一考の価値はある政策である。
また、これが一番大切なことだと思うのだが、多くの人が違いのもたらす豊かさを実感することである。
日本人は、いままで同質性の中でぬるま湯の中に浸かってきたような印象を受ける。特に公共部門においては、国際的な競争にさらされなかったためにその傾向が極めて顕著に見られる。多くの企業が国際化への対応を忌避する経緯としては、実はぬるま湯に浸かって、日本というそれなりに大きな市場でなぁなぁと生活をしていきたいという思いが透けて見える。
先日、中国の「人民日報」を読んでいたところ、中国人は日本人の勤勉さと約束や規則をしっかり守る部分を見習うべきだという論説があって、どうにもこそばゆい気分になってしまったのだが、いまの日本人はそれほど競争意欲にあふれた勤勉な人たちではなくなってしまったし、さらに言えば約束や規則に基づいた経済活動をしているというのは、あくまでも表向きの話である。
実刑が下されたライブドア事件に対して、数十倍も規模が大きく、悪質かつ恣意的であった日興コーディアルの事件は、ほとんど問題にされなかった。今日の日本では徴税をはじめとして、そこらに恣意的な行政による不公平が生まれており、それが人々を傷つけずにはいられなくなっている。こうした、強力な支配者対被支配者の関係を公務員と国民のあいだにもたらしたのは、まさしく日本人は異なる文化・価値観を一切認めないという排他性にある。それは優れた技術を海外から受け入れるというのとは違う、もっと人間的な部分における関わりの問題である。こうした、お上が言うことはすべて正しく、支配される安泰が好ましいという日本人の性質が変わらないかぎり、多文化主義など遠くになりにけりである。