第一問

 思想的スノビズムは、西洋における広告代理店の歴史と合わせて考えると理解しやすい。キリスト教の誕生の時も、マルクスの資本論発刊のときも、コカコーラという新製品の発売のときも、西洋の人々は同じことを考えた。つまり、これらを広めることは正しいことであり、私たちは積極的手段をもってして広めなければならないという考えである。

 これは東洋的な思想とは違うものだ。仏教や儒教、道教の広がりは、徳の感化というごくゆるやかな次元のものであり、積極的な布教が行われるようになったのは、せいぜい鎌倉仏教以降の話である。

 こうした点において、西洋化を果たした明治維新以後の思想、つまりそれが人道主義であれ、マルクス・レーニン主義であれ、新日本主義であれ、はことごとく寄生虫的であった。それを積極的に布教することは、疑いの余地なく正しいこととされ、その布教の一手段として日本人の精神性の中に深く感化していた思想を、食い散らかすようにして利用することに対してさえ、こうした思想の宣教師たちはためらわなかったのである。

 また、このようにして移植された思想が急速に広まる背景として、筆者は無知ゆえの感動のしやすさを挙げる。

 思想家と人々の間には、思想の仲買人なるものがいて、彼が人々がもともと持っているある種の観念を食い散らかし、吸収し、手前が持ちこんだ思想とあわせ、人々に差し出す。このことによって、人々は、自分たちが持っていた思想に近いような斬新な思想に触れることになる。

 人々はこうした論理に触れたことすらないので、批判的な時代の精神を持っていない。

 であるからにして、多少論理的めいた粉飾のなされた話であるならば、無批判に感動してしまいこれを受け入れる。さらにご丁寧なことには、これはもともとの思想とは似ても似つかない、日本的なもともとの観念を織り交ぜたような、まさに仲買人の思想なのである。

 こうした寄生虫のような思想が、インテリぶった格好をして闊歩しているところに、現在の思想界の困難があるということを筆者は見抜いている。として、もっとも問題なのは彼らにだまされる知識欲のある大衆なのではないと憤っている。

第二問

 Bにおいて述べられている日本の近代思想周辺の様々な論評については、どれをとっても価値があり、今日的意義をもちうるものではあるのだが、特にその中にあっても、「少しでも論理的な形をとった考えに、日本人が魅力を感ずるのは、日本人がドイツ人のように論理的な頭脳を持っているということを示すものではあるまい。むしろ批判力が足りないから来るというべきであろう」という論評に着目したい。

 これが、どのような結果をもたらすかについても、Bでは後半、結論部分において述べている。

「~まったく、自己というものがなかった。自分を信頼せず、また自ら努力することもしないで、大雑把に、考える余地なしとばかりに、成り行き任せになかせされながら、それを現実主義と主張して飛び込んでいったのが日独伊同盟だった。」と、このような態度を涵養したのが、まさに日本人の寄生虫的外来文化に対する無批判な時代の精神だというのである。

 さらに、明治維新以降、欧米の文化を吸収することで発展していった日本人の気性について以下のような分析さえ残している。

「敵が出てくると衝動的にカンカンになって戦うが、そういう相手がいない場合は、喧嘩相手を失った怠け小僧のように勉強に身が入らない。自分で一人コツコツと創造していくという性質ではなく、いつも相手で動き、結局は相手に振り回されるようなところがあるのは、やはり自主性に欠いているということであろう。」

 これが単なる気分であることを見抜いたBは、つまり日本における哲学の貧困という問題に直面する。つまり、海外から来た思想を、思想の仲買人たちが、日本に古来から伝わる観念を食い尽くした上で、それらを混合させたものを人々に売りつけ、インテリぶった大衆がそれを無批判に受け入れたままにして、さして吸収することもないまま、明確な理路もなく思想によって粉飾された気分のもとで、あの悲惨な戦争に突き進んだのだとする。

 そういう意味では、BにとってAの論評は、まさしく納得のいくものであるのは確かである。とくに、Bにおいて述べられた無批判の受容がなぜ明治維新期の日本において行われたかは、Aを読んでみると良く分かる構造になっている。

 まず、それ以前に、日本人の基本的な精神構造を抑えておきたい。それは、封建性と排他性という二つの言葉によって表現される。

 そもそも、排他的であるはすの日本人が素直に舶来の思想を受け入れるなどということはありえないことである。

 それは、江戸時代の初期におけるキリスト教の布教を見れば明らかなことで、当時の人々でキリスト教信仰に殉じた人々は、かなり控えめに言っても、少なかったといわざるを得ず、人々は大体貿易の実際的な利益のために、信仰していたふりを装っていた人の方がむしろ多かった。

 にもかかわらず、明治維新以後において、西洋の思想が日本社会の中で一定の影響力を行使しえたのは、それがまさに思想の仲買人という媒介を通してもたらされたものだったからである。

 思想の仲買人は、まず西洋の人々に日本の思想を紹介する以前に、日本人が古来より持っていた観念を食いつくし、その勘所をしっかり把握した上で、人々に理解されるように西洋の思想を作り変えた。というよりも、それはほとんど似て非なるものだったといっても語弊はない程度のものである。

 そうした事情もあり、日本人は、実にすんなりと、彼らがもたらした西洋思想を受容し、さしたる抵抗もなくこれを受け入れた。

 では、実際に日本人は海外における自由なり愛なりという諸概念を受容できたかというと、それは少なくとも海外留学を経た知識人においては事情が違った。

 たとえば、夏目漱石は自由という概念に直面して、海外で神経衰弱を起こしているし、小説の概念を作り上げた人も、愛という言葉に直面し、それをどのように翻訳すればいいかと心を砕いている。しかし、それが大衆であると、そうした困難に頭を悩ませずにすむ。この好対照に、まさしく思想の仲買人の働きが一役買っているのである。

 こうして、西洋の最先端の思想を身に付けたつもりになった日本人は、難しい言葉を覚えたばかりの子供のような態度をとった。いまだ儒教的価値観から抜け出せていない中国や朝鮮地域に対し、帝国主義的侵略に及んだのである。

 芥川龍之介のような第一線の、海外駐在経験もある日本人は、こうした傾向を危惧した。しかし、思想の仲買人であった似非インテリと、彼らに扇動されて西洋思想らしきものを受け入れた大衆はもはや冷静さを失っていた。

 実のところ思想でもなんでもない気分に、西洋の諸文明らしき粉飾をちりばめたグロテスクな空気に踊らされ、彼らは西洋思想のなにもかもを正当化の道具として使うという、哲学に対する最大限の侮辱を行いながら、そこに内在する罪悪に気付くこともなく滅びへの道へと突き進んだのである。

 こうした観点から考えると、Aで述べられたような日本人の感性に迎合したような西洋思想の紹介を行い、半ば強引かつ積極的な方法で、これを布教するという思想の仲買人の行為は、今日では、というよりBの視点からみれば、まさしく無責任のきわみであり、このような構造のなかに飲み込まれた日本人の市民の無知よりも、むしろその罪は大きなものであると評価される。

 それは、一方で大衆が西洋の本当の思想に目覚めたくなかったということも意味している。何度も繰り返すように、論理的めいた粉飾のなされた話であるならば、無批判に感動してしまいこれを受け入れる。さらにご丁寧なことには、これはもともとの思想とは似ても似つかない、日本的なもともとの観念を織り交ぜたようなものが、まさに仲買人の思想であったのだと今日では評価される。

第三問

 思想の仲買人とは、本来的な意味においては、読者と思想家との間を仲介するものである。しかし、思想の仲買人そのものが思想家として崇め奉れられたり、彼らを媒介とすると本来の思想とは似ても似つかぬものになるという問題は、AやBにおいても述べられている。

 しかし、ここで第三の意味を考えると、それはおそらく大衆は選択的に、そのようなでたらめな思想の仲買人を選択し、本来の意味を懇切丁寧に解説する人々を排除したのではないかとも考えられる。

 日本人は排他的な民族として知られる。

 彼らが選択したのが、まさしく論理的めいた粉飾のなされた話であるならば、無批判に感動してしまいこれを受け入れるという需要に支えられた、もともとの思想とは似ても似つかない、日本的なもともとの観念を織り交ぜたようなものの供給があったとしても、それは然るべき結末なのである。

 思想の仲買人には、つまり、そのような供給を求めた、日本国民という需要の集団的な無知がある。そのような意味で第三の意味とは、日本人の排他性ゆえに外部の思想を認めない態度だ。