十九世紀以前の問屋制手工業の社会は、情報よりも智恵の求められた時代である。第一に情報の絶対量が乏しく、第二にこの時代の企業は高度な情報よりもむしろ作業を手際よく進めることを人々に求めた。

 二十世紀に入ると工場制機械工業の時代が到来し、後半からは先進国の中に脱工業化を図る国も出てきた。情報があふれた社会となり、人々は情報を生産に取り入れることが死活問題であることを認識し始めた。

 二十一世紀に入ると、情報は人々が処理しえないほどに増大し、インターネットの出現で行き着くところまで行き着いてしまった。ここで初めて先人の智恵を大切にする暮らしぶりが見直されはじめている。

 これは資料一にもあるように人々が情報の危険性に気づき始めたことに端を発する。二十世紀は戦争の世紀でもあり、その渦中で人々はだまされ続けた。正邪を判断する智恵こそが情報に呑み込まれないためには必要なのだ。

 リテラシーとしての資料三の叡智がこうして見直され始めたことは喜ぶべきことだろう。しかし、人々が原点回帰をすれば問題が解決するわけではない。私たちは好むと好まざるとにかかわらず、情報化社会に生きているのだ。

 その最も大きな理由としては、もはや資料二のようなネットワークのなかでは生活が完結しえないことにある。高度に分業が進んだ社会では人々が多くの認識を共有せざるをえなくなるためである。

 かつてと異なるのは情報が膨大にある中で叡智をどのように発揮するのかという課題が人々に課されている点である。ポスト工業化社会では今まで以上に情報を使いこなす能力が求められるのは明白なことだ。

 情報は取捨選択され知識となり、受け取り人の素養如何では知性になり、経験を経て叡智になる。この三つの変換が上手にできる人がこれからの情報化社会をうまく乗り切れる。

 大切なのはあらゆる出来事から学ぶスタンスを崩さないことにある。我以外皆師也という古来からの金言は今日でもその輝きを保ち続けている。高度な情報化社会のなかで人々が学んだ教訓は、かつて人々が孔子から学んだ教訓となんら変わらないものだった。

 とはいえ今日では扱う情報量はけた違いだ。振り回されないためには、中庸の精神を根底に持ち続けなけれる事が大切だ。

 「情報」を思いのままにする「知識」は古来から学ぶしかない。