第一問
物理学者は今日では、ますます大きく哲学的な問題と対決せざるをえなくなっている。
哲学の発展における初期の段階では、おおよそ人間が知るに値することは、すべて人間の思索の中でそれを見出すことが出来ると考えられていた。また、こうした思索によって、世界を客観的にとらえ、哲学における概念と思考とは対の位置にある唯物論的な世界に対して何かしら学ぶことが出来るという客観論への疑いが強まってきたのも当節である。これらを二つの幻想と呼ぶことにし、少々の区別を付けたい。
これら二つの幻想のそれぞれを解決するためには、この二つの命題は無関係ではいられない。 幻想を解決するためには、物とはそれらが見えるとおりのものであるという哲学の教義から出発する。しかし、物理学はそれが救いがたいほど間違っているとを証明した。経験的に知っていることと、その実在の性質は違うということが物理学によって明らかになったからである。科学が「物とはそれらが見えるとおりのものである」とし、最大に世界に対して客観的であろうとしたときに、物理学研究の成果は、その意思に反して主観性のさ中にわが身を陥れる結果になったのである。
ここで、ようやく物について人間がもちうるあらゆる知識は、もっぱら感覚によって与えられた素材を加工した結果とすべきであろうという確信が確立された。
また、アインシュタインは、ここまで哲学における客観性が、物理学においては悲惨なほどに主観性にしかなりえなかった事実を見て現れた、「形而上学」についてもその存在意義を否定せざるを得なかった。人間を存在者としたときに、人間を人間たらしめる超越的な原理を研究対象とする学問のことであるが、辛らつな彼にとってはそれは物理学者が向き合うべき哲学的な課題からの逃避のようにしか思えなかったのである。
概念の体系としての命題が、感覚として残っている経験をあまりにも強く結び付けられたことに彼は我慢が出来なかった。
また、彼はバードランド・ラッセルの認識論も、そうした概念の体系としての命題が、感覚として残っている経験をあまりにも強く結び付けられているような形而上学の一部として考え、これを批判せざるを得なかったのである。
第二問
人間による外的世界の認識について、三人はそれぞれに異なった価値観を持っている。
まず、アインシュタイン氏は、人間が持っていた世界をなるたけ客観的に把握したいという意思とは裏腹に、そうしたいと思えば思うほどに、人間は救いようもないほど主観的な把握方法に絡め取られてしまうと考えた。
デカルトは、方法的懐疑を唱えた第一人者であるが、またアインシュタインも世界を客観的に捉えるとする当時最先端の科学としての哲学に対してさえ、物理学的見地から徹底的な懐疑と批判をもって、臨んだ人物であるといえよう。
その、デカルト氏は、世界を客観的に捉える方法を探究する上で以下のような思索をしている。少々長くなるが、論旨を追いたい。
まず、人間は、どんな身体もないと仮定できる。同じように、どんな世界もない、自分のいるどんな場所もないと仮定することもできる。しかし、自分が存在しないとは仮定できない。むしろ逆に、自分が他のものを疑おうとしていることによって、皮肉にも、自らの存在を認めざるをえなくなる。
逆もまた考えてみよう。もし、私がこうした世界に対する懐疑について考えることをやめただけで私が存在したと信じる理由は一切なくなる。たとえ、身体、世界、場所が確かに存在していたとしても、考えることをやめるだけで私の存在を証明するものは何もなくなるのである。
彼がたどり着いたこうした考えこそが、まさに「我思う、故に我あり」という境地であった。
これをもう少し詳しくのべるならば、私は一つの実体として確かにあるということである。そして、それを支える本性は考えるということだけにあり、存在するためにはどんな場所も必要とせず、いかなる物質的なものにも依存しない。
さらに考えを深めれば、私をいま存在するものにしている考えるということは、物体としての身体とは明確に区別され、しかも物体としての身体よりも理解しやすく、たとえ物体としての身体の消えてしまったとしても、完全に今あるままのものであることに変わりはないという結論にたどり着く。
また、このような思考に関して、完成度の低いものが集まれば、完成度が高くなるという考え方は、無から何かが生じるというのと同じぐらい救いようがなく間違っている。このことから、考えるという本性は、完成度の高い私の中におかれた、真に完成された行為なのである。
ここで、デカルトは神についても考える。完成されたものが人間のものであるはずはなく、それは神の本性なのだという結論にデカルトは行き着き、かくして彼は神に対する信仰を持つようになる。
ポパー氏は、アインシュタイン氏が認めようともしなかった科学と形而上学の関連についてから、世界を捉えようとした。しかし、彼はアインシュタイン氏の理論と同じようなコペルニクス的転回を用いて、科学と形而上学の関連について述べているのである。
カントは自然に問いかけることの大切さを説いた。しかし、その一方でニュートンの理論の唯一であることと真実であることを証明しようとしたばかりに、彼はそうした理論を自然に押し付けて、当てはめて、強引に適用させようとした節があった。
しかし、ポパー氏は世界を把握する方法としてこのような強引な手段を用いなかった。ここで用いたのがアインシュタイン氏の以下の考察であった。
『幻想を解決するためには、物とはそれらが見えるとおりのものであるという哲学の教義から出発する。しかし、物理学はそれが救いがたいほど間違っているとを証明した。経験的に知っていることと、その実在の性質は違うということが物理学によって明らかになったからである。科学が「物とはそれらが見えるとおりのものである」とし、最大に世界に対して客観的であろうとしたときに、物理学研究の成果は、その意思に反して主観性のさ中にわが身を陥れる結果になったのである。』
ここでポパー氏は、カントの試みにこの理路を当てはめて、彼の理論を自然に押し付けようとする世界を把握する方法論が救いがたく間違っていたことを見抜いた。
そして、むしろ自然に問いかけることこそが、世界を把握する方法としてもっとも適切であると考えたのだ。ここでも、アインシュタイン氏とは意見の一致をみる。彼はそれを「物理学の保証するところによれば、草の緑云々は経験的に知っている固さや冷たさではなくて、まったく異なった何者かである」としている。
このようにはじめに理論ありき、ではなく、自然に問いかけてそこから学ぶという手法が世界を把握する方法論としてはもっとも正しいと考えている点は三者に共通する。
第三問
二人の世界観、というよりも世界を把握する方法の違いを端的に述べると、デカルトはロゴスによる思考を繰り返した結果として最終的に神への信仰による世界の把握にたどり着いたのに対して、アインシュタイン氏は主観の中で経験的に分かることではなく、自然に問いかけながら物理学の成果により実証的に示されたことによって世界を把握しようとした。
このような結果の違いは、当然のことながら彼らの理路の違いによって生まれる。二人の理路はどこで食い違いを見せたかについて考えたい。
アインシュタイン氏はまず初期の段階において、おおよそ人間が知るに値することは、すべて人間の思索の中でそれを見出すことが出来るという哲学者の基本的な思考の進め方について懐疑を抱いていた。方法的懐疑を唱え、徹底的に考え抜くことを是としたデカルトにとってさえも、徹底的に考える結末が客観性ではなくて主観性に陥る結果になるというところにまでは考えが及ばなかったらしい。
また、当然のことながら、世界を把握する過程における両者の方法論も食い違いは見せる。
アインシュタイン氏は、そうした哲学の大前提に疑念を抱いたあと、実際に自らが物理学的な立証によって、経験から得られた知識が救いがたく間違っていることを証明した。
一方で、デカルト氏はいつまでたっても机上の論理から離れることができなかった。身体、世界、場所がないが、そんなことを考えている自分はある。一方、身体、世界、場所があるときに、それを考えている自分がなければ自分の存在は証明できない。よって「我思う、故に我あり」。このようにして結論を導き出すのが彼の理路である。
しかし、私が考えるに彼のこの理路のなかで、もっとも釈然としないのは、半ば唐突に神の存在が語られる部分である。中世のヨーロッパ人にとっては、それが自明であったことには疑いの余地もないのだが、今日のわれわれにしてみれば、あの理路の流れの中で、突如として自然と人間の関係が、神という絶対者と人間の関係に移り変わるということを自明にするのには抵抗がある。
その点で、アインシュタイン氏の理路はまことに立派で、全世界の誰がいかなる場所でいかなる時に行っても、彼の理路だと同じ結果が導き出せる。私は彼を支持したい。
物理学者は今日では、ますます大きく哲学的な問題と対決せざるをえなくなっている。
哲学の発展における初期の段階では、おおよそ人間が知るに値することは、すべて人間の思索の中でそれを見出すことが出来ると考えられていた。また、こうした思索によって、世界を客観的にとらえ、哲学における概念と思考とは対の位置にある唯物論的な世界に対して何かしら学ぶことが出来るという客観論への疑いが強まってきたのも当節である。これらを二つの幻想と呼ぶことにし、少々の区別を付けたい。
これら二つの幻想のそれぞれを解決するためには、この二つの命題は無関係ではいられない。 幻想を解決するためには、物とはそれらが見えるとおりのものであるという哲学の教義から出発する。しかし、物理学はそれが救いがたいほど間違っているとを証明した。経験的に知っていることと、その実在の性質は違うということが物理学によって明らかになったからである。科学が「物とはそれらが見えるとおりのものである」とし、最大に世界に対して客観的であろうとしたときに、物理学研究の成果は、その意思に反して主観性のさ中にわが身を陥れる結果になったのである。
ここで、ようやく物について人間がもちうるあらゆる知識は、もっぱら感覚によって与えられた素材を加工した結果とすべきであろうという確信が確立された。
また、アインシュタインは、ここまで哲学における客観性が、物理学においては悲惨なほどに主観性にしかなりえなかった事実を見て現れた、「形而上学」についてもその存在意義を否定せざるを得なかった。人間を存在者としたときに、人間を人間たらしめる超越的な原理を研究対象とする学問のことであるが、辛らつな彼にとってはそれは物理学者が向き合うべき哲学的な課題からの逃避のようにしか思えなかったのである。
概念の体系としての命題が、感覚として残っている経験をあまりにも強く結び付けられたことに彼は我慢が出来なかった。
また、彼はバードランド・ラッセルの認識論も、そうした概念の体系としての命題が、感覚として残っている経験をあまりにも強く結び付けられているような形而上学の一部として考え、これを批判せざるを得なかったのである。
第二問
人間による外的世界の認識について、三人はそれぞれに異なった価値観を持っている。
まず、アインシュタイン氏は、人間が持っていた世界をなるたけ客観的に把握したいという意思とは裏腹に、そうしたいと思えば思うほどに、人間は救いようもないほど主観的な把握方法に絡め取られてしまうと考えた。
デカルトは、方法的懐疑を唱えた第一人者であるが、またアインシュタインも世界を客観的に捉えるとする当時最先端の科学としての哲学に対してさえ、物理学的見地から徹底的な懐疑と批判をもって、臨んだ人物であるといえよう。
その、デカルト氏は、世界を客観的に捉える方法を探究する上で以下のような思索をしている。少々長くなるが、論旨を追いたい。
まず、人間は、どんな身体もないと仮定できる。同じように、どんな世界もない、自分のいるどんな場所もないと仮定することもできる。しかし、自分が存在しないとは仮定できない。むしろ逆に、自分が他のものを疑おうとしていることによって、皮肉にも、自らの存在を認めざるをえなくなる。
逆もまた考えてみよう。もし、私がこうした世界に対する懐疑について考えることをやめただけで私が存在したと信じる理由は一切なくなる。たとえ、身体、世界、場所が確かに存在していたとしても、考えることをやめるだけで私の存在を証明するものは何もなくなるのである。
彼がたどり着いたこうした考えこそが、まさに「我思う、故に我あり」という境地であった。
これをもう少し詳しくのべるならば、私は一つの実体として確かにあるということである。そして、それを支える本性は考えるということだけにあり、存在するためにはどんな場所も必要とせず、いかなる物質的なものにも依存しない。
さらに考えを深めれば、私をいま存在するものにしている考えるということは、物体としての身体とは明確に区別され、しかも物体としての身体よりも理解しやすく、たとえ物体としての身体の消えてしまったとしても、完全に今あるままのものであることに変わりはないという結論にたどり着く。
また、このような思考に関して、完成度の低いものが集まれば、完成度が高くなるという考え方は、無から何かが生じるというのと同じぐらい救いようがなく間違っている。このことから、考えるという本性は、完成度の高い私の中におかれた、真に完成された行為なのである。
ここで、デカルトは神についても考える。完成されたものが人間のものであるはずはなく、それは神の本性なのだという結論にデカルトは行き着き、かくして彼は神に対する信仰を持つようになる。
ポパー氏は、アインシュタイン氏が認めようともしなかった科学と形而上学の関連についてから、世界を捉えようとした。しかし、彼はアインシュタイン氏の理論と同じようなコペルニクス的転回を用いて、科学と形而上学の関連について述べているのである。
カントは自然に問いかけることの大切さを説いた。しかし、その一方でニュートンの理論の唯一であることと真実であることを証明しようとしたばかりに、彼はそうした理論を自然に押し付けて、当てはめて、強引に適用させようとした節があった。
しかし、ポパー氏は世界を把握する方法としてこのような強引な手段を用いなかった。ここで用いたのがアインシュタイン氏の以下の考察であった。
『幻想を解決するためには、物とはそれらが見えるとおりのものであるという哲学の教義から出発する。しかし、物理学はそれが救いがたいほど間違っているとを証明した。経験的に知っていることと、その実在の性質は違うということが物理学によって明らかになったからである。科学が「物とはそれらが見えるとおりのものである」とし、最大に世界に対して客観的であろうとしたときに、物理学研究の成果は、その意思に反して主観性のさ中にわが身を陥れる結果になったのである。』
ここでポパー氏は、カントの試みにこの理路を当てはめて、彼の理論を自然に押し付けようとする世界を把握する方法論が救いがたく間違っていたことを見抜いた。
そして、むしろ自然に問いかけることこそが、世界を把握する方法としてもっとも適切であると考えたのだ。ここでも、アインシュタイン氏とは意見の一致をみる。彼はそれを「物理学の保証するところによれば、草の緑云々は経験的に知っている固さや冷たさではなくて、まったく異なった何者かである」としている。
このようにはじめに理論ありき、ではなく、自然に問いかけてそこから学ぶという手法が世界を把握する方法論としてはもっとも正しいと考えている点は三者に共通する。
第三問
二人の世界観、というよりも世界を把握する方法の違いを端的に述べると、デカルトはロゴスによる思考を繰り返した結果として最終的に神への信仰による世界の把握にたどり着いたのに対して、アインシュタイン氏は主観の中で経験的に分かることではなく、自然に問いかけながら物理学の成果により実証的に示されたことによって世界を把握しようとした。
このような結果の違いは、当然のことながら彼らの理路の違いによって生まれる。二人の理路はどこで食い違いを見せたかについて考えたい。
アインシュタイン氏はまず初期の段階において、おおよそ人間が知るに値することは、すべて人間の思索の中でそれを見出すことが出来るという哲学者の基本的な思考の進め方について懐疑を抱いていた。方法的懐疑を唱え、徹底的に考え抜くことを是としたデカルトにとってさえも、徹底的に考える結末が客観性ではなくて主観性に陥る結果になるというところにまでは考えが及ばなかったらしい。
また、当然のことながら、世界を把握する過程における両者の方法論も食い違いは見せる。
アインシュタイン氏は、そうした哲学の大前提に疑念を抱いたあと、実際に自らが物理学的な立証によって、経験から得られた知識が救いがたく間違っていることを証明した。
一方で、デカルト氏はいつまでたっても机上の論理から離れることができなかった。身体、世界、場所がないが、そんなことを考えている自分はある。一方、身体、世界、場所があるときに、それを考えている自分がなければ自分の存在は証明できない。よって「我思う、故に我あり」。このようにして結論を導き出すのが彼の理路である。
しかし、私が考えるに彼のこの理路のなかで、もっとも釈然としないのは、半ば唐突に神の存在が語られる部分である。中世のヨーロッパ人にとっては、それが自明であったことには疑いの余地もないのだが、今日のわれわれにしてみれば、あの理路の流れの中で、突如として自然と人間の関係が、神という絶対者と人間の関係に移り変わるということを自明にするのには抵抗がある。
その点で、アインシュタイン氏の理路はまことに立派で、全世界の誰がいかなる場所でいかなる時に行っても、彼の理路だと同じ結果が導き出せる。私は彼を支持したい。