第一問
二十世紀は絶対化から相対化への時代であった。インタグリティとは、こうした時代にあっても個々人の内面に絶対的な姿として一貫して残っている本質であると、ここでは定義づけよう。
さて、インティグリティは、具体的にどのような文脈の中で使われる言葉なのだろう。周辺の文脈から類推してみよう。
「インティグリティの不足を感じ取り、一貫した筋道を追求するのが人間のもっとも基本的な本性である」ここから分かるように、インティグリティとは一貫した筋道のことを指すらしい。では、具体的にどのような場合にインティグリティが力を発揮するのかについても考えてみよう。
まず、人間は、自分の中の筋道を失ったときに、アイデンティティの危機を迎えると書いてある。であるからにして、無頼を気取ってみても、結局のところ人間はインティグリティを追求せずにはいられない存在であるとまとめる。
インティグリティの大切さは、自分にそうした考えが欠如していることを棚に上げて、他人の欠落を批判する一面的な正義と直面したときに、特に深く感じることができる。誰にとってもインティグリティは存在意義を確立し、確認する上で大切なものであるし、それを失ってはならないのだから、そのように自己を省みなくてはならない。
第二問
今日における、思想の衰弱というか思想の貧困ともいえる状況は、端的に思想を持つ人々の苦境を見れば伺えるものである。
先日、有名なメゾンの、「Yohji Yamamoto」が倒産の憂き目にあった。ちょうどここで紹介されていた著名なデザイナーの一人である。川久保玲は慶応義塾で美学を専攻したコム・デ・ギャルソンの創始者で、おそらくこの不況の中においては彼女も苦境に陥っているのではないかとおもう。
問題は彼らが、ここにもあるように、「他人の思想に対してただ乗りする大衆に、わけもなく飽きやすい大衆に、消費財を売りつけながら自分の筋道を通していくという綱渡りを強いられているというところ」にある。こうした路線が破綻を向かえたのが、まさしく Yohji Yamamotoの倒産であり、それはレヴィ・ストロースの死と同じぐらい、私にとっては象徴的な一時代の終焉であった。
人間が他者と分別しうる個性を持つためには、どんな状況下においても曲げることのない筋道を持ち続けることによってしか、それはできないのである。あくまでも、こういったファッションであるとか、モードであるとか、なんたら主義であるとか、そういった当節の流行は、趣味の表現とまったく無関係だとはいわずとも、その瑣末な一部分に過ぎないことは確かなのだ。
かつて、異性の友人とVivienne Westwoodの話をしていたときに、ずいぶん経ってから後に、彼女はいきなり怒り出して、「あなたはそれをただ知っているだけで、理解したり吸収したり学んだりということはしてない」といわれたことがある。その当時は意味が分からなかったが、今では何をいわんとしていたのかがはっきりと分かるし、であるからにしてそういった種類の安っぽい大衆性に対する嫌悪が彼女にあったこともはっきりと分かるし、よって私はとてもこうした話を考えていると恥ずかしいような気分になる。しかし、それは私一人の問題ではなく、まさしく今日の時代の精神なのだろう。
そういう意味で、こうした時代の精神が筆者にとっては思想の衰弱に思えるのもしごくごもっともなことである。
二十世紀は絶対化から相対化への時代であった。インタグリティとは、こうした時代にあっても個々人の内面に絶対的な姿として一貫して残っている本質であると、ここでは定義づけよう。
さて、インティグリティは、具体的にどのような文脈の中で使われる言葉なのだろう。周辺の文脈から類推してみよう。
「インティグリティの不足を感じ取り、一貫した筋道を追求するのが人間のもっとも基本的な本性である」ここから分かるように、インティグリティとは一貫した筋道のことを指すらしい。では、具体的にどのような場合にインティグリティが力を発揮するのかについても考えてみよう。
まず、人間は、自分の中の筋道を失ったときに、アイデンティティの危機を迎えると書いてある。であるからにして、無頼を気取ってみても、結局のところ人間はインティグリティを追求せずにはいられない存在であるとまとめる。
インティグリティの大切さは、自分にそうした考えが欠如していることを棚に上げて、他人の欠落を批判する一面的な正義と直面したときに、特に深く感じることができる。誰にとってもインティグリティは存在意義を確立し、確認する上で大切なものであるし、それを失ってはならないのだから、そのように自己を省みなくてはならない。
第二問
今日における、思想の衰弱というか思想の貧困ともいえる状況は、端的に思想を持つ人々の苦境を見れば伺えるものである。
先日、有名なメゾンの、「Yohji Yamamoto」が倒産の憂き目にあった。ちょうどここで紹介されていた著名なデザイナーの一人である。川久保玲は慶応義塾で美学を専攻したコム・デ・ギャルソンの創始者で、おそらくこの不況の中においては彼女も苦境に陥っているのではないかとおもう。
問題は彼らが、ここにもあるように、「他人の思想に対してただ乗りする大衆に、わけもなく飽きやすい大衆に、消費財を売りつけながら自分の筋道を通していくという綱渡りを強いられているというところ」にある。こうした路線が破綻を向かえたのが、まさしく Yohji Yamamotoの倒産であり、それはレヴィ・ストロースの死と同じぐらい、私にとっては象徴的な一時代の終焉であった。
人間が他者と分別しうる個性を持つためには、どんな状況下においても曲げることのない筋道を持ち続けることによってしか、それはできないのである。あくまでも、こういったファッションであるとか、モードであるとか、なんたら主義であるとか、そういった当節の流行は、趣味の表現とまったく無関係だとはいわずとも、その瑣末な一部分に過ぎないことは確かなのだ。
かつて、異性の友人とVivienne Westwoodの話をしていたときに、ずいぶん経ってから後に、彼女はいきなり怒り出して、「あなたはそれをただ知っているだけで、理解したり吸収したり学んだりということはしてない」といわれたことがある。その当時は意味が分からなかったが、今では何をいわんとしていたのかがはっきりと分かるし、であるからにしてそういった種類の安っぽい大衆性に対する嫌悪が彼女にあったこともはっきりと分かるし、よって私はとてもこうした話を考えていると恥ずかしいような気分になる。しかし、それは私一人の問題ではなく、まさしく今日の時代の精神なのだろう。
そういう意味で、こうした時代の精神が筆者にとっては思想の衰弱に思えるのもしごくごもっともなことである。