演歌7 作詩家松村又一氏 | zero_wifeのブログ

zero_wifeのブログ

日本民族の弥栄(いやさか)を願って。

松村又一氏といっても

かなりの演歌ファンでもすぐにわからない人も増えたかも?

 

今一番知られているのでは

「お月さん今晩は」 の作詞ですね♪

 

今のマスク狂乱で

大正時代の米暴騰による米騒動

米暴騰に大きく影響したシベリア出兵を思い出しましたよ。

 

で そのシベリア出兵に当時青年の松村氏は

地元の奈良連隊から参加しているのね。

でも 松村又一 シベリア出兵で検索しても

一つも出てこない。

辞書的なものにも一切触れられていないから

書いておこうと思いました。

 

( 前も書いたけど 

 ネットの世代は平均的には日本人の平均より下で

 それにどんどん書く人はもっと年が下だから

 どうしても情報に偏りがありますね。)

 

シベリア出兵はロシア革命の波及を恐れた資本主義各国が

チェコ軍救出の名目で実質は革命干渉に乗り出した出兵。

1918年9月から1922年( 日本以外は1920年に撤退 )

 

日本は地理的に近いし

当時イギリス フランス等は

第一次世界大戦で

自分たちの国がドイツと必死の戦いだったので

各国といっても実質は

日本とアメリカが中心。

 

この一部隊として奈良連隊が出兵していて

松村氏はその一員だったわけです。

1920年秋に一足早く帰還した一部の中に

松村氏が入っていたのは幸運でした。

 

そのあとの日本軍の戦いは散々になったからね。

 

@@@@@@@@@@

 

昭和に入って1927年に上京した松村氏は

本格的に詩作に取り組むとともに

生活のために当時黎明のレコード会社の

作詞も手掛けたのでした。

藤山一郎 「走れトロイカ」

淡谷のり子 「思い出のブルース」等

 

キングレコードの親会社の講談社は

当時いろいろな雑誌を持っていて

そこの執筆の常連だった松村氏は

新人の岡晴夫 上原げんとコンビを売り出そうと

書いたのが「国境の春」

 

これが大ヒットして

岡晴夫 上原げんとコンビはヒット続きで

上原げんとは戦後は

ひばりや島倉千代子、初代コロンビアローズ等

大ヒットメーカー

( 五木ひろしは出世した中では最後の弟子だね )

 

となったので 松村氏の影が薄いですが

新人の岡 上原コンビのデビューのきっかけだったわけです。

 

それは後年の「お月さん今晩は」も似た感じですね。

この歌によって歌手の藤島恒夫 作曲の遠藤実氏が

世に出たわけですから。

 

1990年にはレコード大賞功労賞を受賞されています。

 

松村氏の故郷奈良県明日香村の稲渕の小高い丘の上には

南淵請安の碑とともに

松村又一氏の碑もありますよ♪

 

参考 大正時代の米暴騰

1917年9月を1とした場合

1918年5月 2倍

  どんどんあがりつづけて

1920年1月 3.8倍

1921年9月以降は 2倍の高止まりで推移

 

当時の日本人の食卓は

米の占める割合が圧倒的に高かった。

つまり食費の大部分は米なわけですから

今の私たちの感覚だと食費が二倍という感じ。

 

それに当時は家計支出に占める食費の割合は

今とは比べ物にならないくらい高かったから

60%から70%

 

現在は23%前後

 

食費が単に二倍という感覚ではありませんね。

 

まさに生活していけない状態。

食べていけない状態。

 

米暴動の発端は富山の主婦たちだけど

今は男性どころか

自称右翼も含めてみんなおとなしいね。

 

稲渕の松村又一氏の碑

パートナーと長く続く秘訣、教えて!

▼本日限定!ブログスタンプ

あなたもスタンプをGETしよう