三門忠司さん フィリピン戦に散ったお父さん   | zero_wifeのブログ

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日本民族の弥栄(いやさか)を願って。

新曲「夫婦みち」の紹介で ラジオ大阪に出ていた三門忠司さん

 
終戦50年の頃に やっぱりラジオ番組で
お父さんが召集で出征するときに
おなかに子供(忠さん)がいるのがわかったお母さんは
急いで駆け付けたけれど
船はもう出た後だったという話を思い出しました。
 
おとうさんは 子供ができたのも知らずに
散々だったフィリピン戦で戦死
 
このフィリピン戦は、
昭和19年10月の台湾沖航空戦の大戦果をもとにした作戦でした。
 
しかし その大戦果は幻であったのを
鹿児島の鹿屋基地にきていた 大本営参謀の堀栄三氏
(戦後 自衛隊退職後奈良県西吉野村村長)は 
見抜いて 東京の大本営に電報を打ちました。
 
しかしそこにいた上級参謀は 
その大戦果はすでに上聞に達している(天皇に報告済み)ので
訂正できないと、握りつぶして、
幻の大戦果(アメリカ軍の空母はほとんど撃沈)をもとに
立てた作戦をフィリピンで強行しました。
 
いないはずの空母が ジャンジャンきて 爆弾の嵐
輸送船は沈められて 弾薬食料はすべて海の藻屑。
 
ここでも死ななくていい人たちが 何十万人もなくなりました。
 
挙国一致 一億総火の玉 とか いいながら
その実はでたらめやメンツで
下の兵たちにばかり犠牲を押し付けていたことが
なんと多いことか・・・
 
戦後 公刊戦史を作った人たちのほとんどは
それらの人たちの部下だったので
都合の悪いことは書いてないのです。
 
奈良の部隊も散々だった
ビルマのインパール作戦にしても
司令官の遺族に気兼ねして 書けないことがある
と 
 
忠さんのような子供や 何十万 何百万のお母さんよりも
責任のある人たちのメンツのほうが大事なのです。
 
しかも 戦後 
占領解除後に復活した軍人恩給は 軍隊歴12年が基準
戦地加算で 激戦度合いによって
一年を二年三年計算はありますが
それでも敗色濃厚になった昭和19年以降に軍隊にとられた人たちは
ほとんどの人たちは12年になりません。
 
結局 日本国民に対する 敗戦責任のある
高級将校や職業軍人だけが、年金で報われるという不合理。
 
歴史に学ぶ といっても
その歴史の記録を検証することから始めないと
真実は見えてきません。
 
8月15日を前に
多くの英霊の方々に追悼の意を捧げます。
 
今の日本は 名もない多くの兵士の方たちの
尊い命の贈り物の上に成り立っているということを
感謝の意とともに思っています。
 
 
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