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《私の反知性》という主題で、いつものような文章を、年内に書こうと思っていたのだけれども、うまくまとまらない。
そのため、覚書のまま公表することとした。
おそらく、いつも私の長文を読んでくださる読者の方々ならば、いちおう、私が言いたいことは伝わるだろう。
しかし、この話題は、もともと、論理的なまとまりをつけるべきではないようなことがらなのだ。やたらと話をしようとのぞむことや、語ることに整合性をつけようとすることは、現代のわれわれが惰性で獲得してしまった、習気というものだ。
語らないことを恐れてはならない。『もはやなにも語らないために語る』ということは、どのような言論よりも優先されることだ。


思想そのものは、私の創作活動において、重要な主題だ。基本的に、思想や哲学のない創作物は、深みをもった芸術とはならない、と考えている。芸術は、もちろん、理論などではないし、技術や技巧でもない。芸術の源は、創意だ。
つまり、知性などではなく、知性よりも先だつ、意志が重要なのだ。べつの語で言い換えるならば、能動性と言ってもよい。
感情的な部分では、私は、私について、知性的な人間だと思ったことは、一度もない。このブログで、私が、さまざまな書籍を紹介するのは、第一に、ほんものの思想を紹介したい、ということのほかに、第二に、広告機能をできるかぎり使いたい、という理由がある。たとえ広告収入としてはささいなものだったとしても、私の読者の方々が、ほんものの思想に親しむようになるための契機となればよいと思っている。


おそらく、ある視点から見れば、私が書く文章は、反知性主義を称揚しているかのように見えるだろう。
知性については、知という状態に、知性をもっていることの自惚れがあるのだとするならば、それは、避けるべきだと思っている。
ただ、知性を拒絶する傾向は、だれにでもある。
人間の知性は、それに先立つ意志がある。意志が知性の原因なのであって、その逆ではない。この道理は、すでに、ショーペンハウアーの知性論のほかにも、さまざまな哲学者や心理学者によって、あきらかとされている。
それに、私の実感も、また、そのとおりだ。われわれの内面には、知性に先だつような、なにかがある。
表層意識では、人は、知性の裏側にある意志を、よく理解しないことが多い。多くの本を読んでいることを褒められたとしても、うれしいものではなく『だから何だ』という反発をおぼえるほうが、自然な反応だ。
『インテリになりたい』と言った人がいたけれども、私は、そのような人々を見るたびに、内心では、軽蔑する。
しかし、その瞬間に「なんじ自身を知れ」というあの命題は、ひとごとではなくなる。


もちろん、知性がなければ、人間の生活は成立しない。人間が知ることを欲する存在である、ということは、事実だ。たとえ、知性を否定したとしても、人間は、やはり知ることをやめることはできない。
しかし、それだけでは、だめだ。


ある思想に斬新さがみとめられるための条件は、発言する人物がなにかを知っている、ということではない。より多くのことを知っているというだけでは、ただ、より多くの材料をもっている、というだけだ。
たとえば、ニンジンや、タマネギ、ジャガイモ、ターメリックといったものを買い集める作業は、料理よりも前の段階だ。
それと同じように、知識を集めたものは、思想ではない。
それよりも、その考えが、ほかのだれも考えなかったような、唯一無二の視点から語られる、ということが重要だ。唯一無二の思想が、われわれに発見をもたらすのである。
唯一無二の視点といっても、難しいことではない。もともと、ひとりひとりの個人は、唯一無二の実存であるから、ある視点をもつことじたいは、単純なことだ。ほんとうに素直なこころがあるならば、自己と世界について、ほかの人々が見なかったような思想をもつことは、可能だ。ショーペンハウアーが、哲学者が直観的世界にしたがうことの大切さを説いたのは、このことだ。
しかし、その単純なことが、難しい。それは、べつの意味では、困難なことである。『自己に素直でいることほど難しいことはない』ということも、また、真実だ。


思考停止社会というのは、一見するならば、コロナ以後の状況をうまくあらわしているように思われるけれども、実態は、どうだろうか。
私には、その反対に、思考の過剰という傾向も、同時に見られるように思われる。新聞が電子化されたことや、ニュース・アプリなどによって、われわれの世界は、よりいっそう、情報が過剰に氾濫するようになっている。情報を受け取るということは、また、その思考を受け取ることでもある。
このような世界では、ふつう想定されていることとは反対に、思考の過剰が、思考停止を増長させる。われわれは、常時、他者が考えたことを受け取らなければ生きることができないようになってしまった。すべての思考を受け取ることなどできないというのに。
ただし、思考の過剰というのも、また、よく注意して見るならば、思考の空転というべき現象にいたっている。
インターネットの時代には、思考の前提となる情報が氾濫するけれども、それだけではない。さまざまな人々の思考も、また、情報の氾濫に比例するかのように、つぎつぎに、休む間もなく流入してくる。
空転というのは、思考を言葉として発信する主体の側でさえも、情報と思考の氾濫についていくことが困難となる、ということだ。


西部邁が、気分が知性よりも優先される、ということを説いたことは、ただしかった。たとえ、西部の生が学生運動にたいする失望と、その苦悩に終始したのだとしても、高度経済成長期のわが国で、彼は、主知主義を批判する態度と見方をたもっていた。


いつも、私が苦悩することは『これほど物質的に恵まれた国に生を受けながらも、なお、私が孤独を感じてしまうのは、なぜか』ということだ。私の芸術における問題は、すべて、人間の孤独な実存にかかわっている。


私は、たまに、美術の教科書に掲載された、ニキ・ド・サンファールの作品写真をおもいだす。サンファールさえも、教養的な知識のうちのひとつとして、あの図録に取り込まれてしまったのだ。すでに、なにも知性でないものはないというのか?
しかし、彼女が拳銃で製作した作品については、あまり説明されていない。まあ、多くの説明は、必要ではない。


『その結果私はいけ好かない男と呼ばれることになる。いいとも。何を言われようが、べつに気にしない。私は同じようなことをあらゆるサイズの、あらゆる格好の人々から言われてきた』
フィリップ・マーロウ(レイモンド・チャンドラーの小説に登場する探偵。邦訳は村上春樹)
本年のうちに、私は、いくつかのハードボイルド小説を読んだことによって、励まされた。
とくに、高城高は、ハードボイルドを思想に昇華させた作家として、再評価されるべきだと思う。高城は、ハードボイルドな生き方というものを、機械文明にたいする一種の反逆である、というふうに解釈している。
中村文則の《銃》という小説があるように、ハードボイルド小説における銃というのは、ただ、近代兵器であるだけではない。フィクションで描写される銃は、武器であると同時に、野性の象徴でもある。機械化された野性が、銃なのだ。
私は、暴力の世界から距離を置いているけれども、確実に、思考を拒絶することは、自己回復の方法なのである。
もっとも、私は、きれいごとなどなんの意味ももたないような暴力を体験していた時期があったのだけれども。
実際の体験の世界にいる、われわれは、ハードボイルド小説の探偵のような生き方をすることができない。
ただ、彼らの精神的な態度をまねることは、可能だ。


反知性という傾向を、だれでも持っている傾向であるとするならば、反知性主義を批判することは、ムダなことだ。
なぜなら、反知性主義は、主義ではないからだ。私の恣意的な表現を使うことが許されるならば、反知性主義というよりも『反知性的な感情』という表現のほうがただしいと思う。題名を《私の反知性主義》ではなく《私の反知性》としたのは、そのような意味だ。


科学的な世界を生きている、われわれは、社会の進歩という幻想によって思考を操作されているときがある。安易な進歩主義が失敗した、いまの世の中さえも、うっかりしているならば、進歩主義的な発想が優位となってしまう。
人間の歴史は、進歩などしない。
ただ、人間は、成長するだけだ。誕生から寿命までのあいだ、人間は、成長し、発達する。進歩と、成長は、おたがいに異なる概念だ。ポスト・ヒューマンの発想は、進歩と成長を混同してしまった。
第一の課題は、精神と身体を一致させることだ。
それは、知性の課題ではなく、ある意味では、神秘主義だ。
しかし、創作活動をする人物は、神秘主義に過剰な期待を寄せてはならない。創造者は、体験の世界の中に、心身合一による全体性をつくる方法を探求するべきだ。


本年度の憂鬱感は、本年度の中に閉じ込めてしまおう、と思った。いまとなって、やっと、区切りがあることの重要さに気づいた。
そのようなことは、私の活動に、どのような達成感も得ることができなかった時期には、わからなかったことだ。2023年という期間は、私を、体験の世界に向きあわせるくらいには、私の心境や行為に変化を与えてくれた。本文を発表したならば、つぎは、いま取り組んでいる作品に着手する。スマホ中毒をテーマとした絵画と、龍のフィギュアは、できれば、明日までに完成させてしまおうと思っている。
(令和五年十二月丗日)