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なぜだかはわからないけれども、先日の《画家の小道》イベントに参加させていただいたときから、私の創作にたいする意欲は、ますます強くなっている。いろいろなアイデアが湧きすぎて、かえって、優先順位がわからなくなる。長時間夏の陽光のもとにいたことによる影響なのか、あるいは、新しい場に出たことじたいが私を勇気づけたのかは、わからない。

それらのほかに、もうひとつ理由を挙げるならば、それは、作家どうしが交流をする空間には、ほかの場所では体験することができないような雰囲気があったためだろうと思う。


交流について考えるとき、私は、ジョルジュ・バタイユが初期の論文で述べていた『聖なるものとは交流である』という定義をおもいだす。

彼は、とくに、キリスト教が聖なるものを実体化してしまった、ということにたいする批判を含めて述べていたのだけれども『共感的一体性の特権的な瞬間、ふだん抑圧されているものの痙攣性のコミュニケーション』という定義は、そのあとバタイユがおこなう《アセファル(無頭人)》の活動や、そのころパリにいた岡本太郎が帰国後に結成した《夜の会》を想起させる。

芸術家にとっては、表現の活動をつうじて人々のあいだに感情的な交流を促すことが、理想とする目標である。自己が主体となって、表現する活動が、他者との交流の場で、実体のない共同体となるのだ。


しかし、いまの世の中では、交流は、ますますシステムに取り込まれてしまっている。SNSが感情的な絆をつくりにくい理由は、ただ画面越しの人間関係の冷たさ、というだけではない。だれかがコミュニケーションのシステムを管理していて、その内部で自己を表現しようとしているかぎり、われわれは、その形式にはまらなければならなくなる。それで、皆、語る内容を、140文字以内に収めなければならなくなったりするのである。そのような試みは、ほとんど無駄に近いことなのだ。

ツイッター(この文章を書いているうちに、Xとなってしまった)を私が活用しない、という事実について、不思議に思われる方々もおられるかもしれないけれども、私には、それよりも『人間は、それほどシステムに順応することができるものだろうか』という疑問もある。ほんとうは、だれも順応することができないのではないだろうか。ただ、皆、どのように活用すればよいのかわからないまま『今は仮想空間で宣伝しなければ埋もれてしまう時代だから』と自己をごまかしながら、現状に流されているだけだ。実際には、SNSでは皆が例外なくタイムラインの中に埋もれてしまっている、ということに気づく人々は、少ない。おそらく、このように述べている私さえも、現状に流されている人々のうちのひとりなのだろう。アメブロの機能が便利であることには感謝しているけれども、そのかぎりにおいて、私は、ブログの形式から逃れることはできないのだ。

人間がシステムに埋もれていく、という感覚があたりまえとなって、それが現代のコミュニケーションのあり方なのだ、という錯覚に陥ってしまう。人をシステムの中の一部としてしか意識しなくなるから、元ツイッター社員が大量解雇されたりもする。私には、イーロンのどういう人間性が偉大なのか、ということが、あまりよくわからない。彼には、経営哲学などあるのだろうか?

やはり、可能ならば、システムの外でも、交流が必要だ。自己宣伝ではないような、ほんとうの交流が、必要だ。

そして、可能ならば、芸術家の共同体が、ほんとうの交流を促すことを、私は希望している。


《画家の小道》は、ほかの芸術家たちの共同体とは、まったく異なる。初出展のときに驚いたことは、おのおのの作家が、出展スペースを確保する過程が、まったくアバウトである、ということだ。遅く来た作家がいたときには、ほかの作家の方々が、譲り合いながら、場所を調整しあう。

イベントそのものに、あまり、システマティックな要素がない。明確なルールといえるものは、寿司屋の裏にある22番地という空間と、出展の時間が11時から16時までと定められているくらいのものだ。ウェブサイトには、禁煙とか、騒音を出さないことなど、常識的なマナーの注意書きはあるけれども、高額な出展費用や審査はない。このような共同体が長続きしている、ということは、稀有なことだ。

私のような、法を無視せずに無法者を演じたい、という願望をもった作家には、ありがたい時間だ。おそらく、無法者がいなければ、文化は、停滞してしまうだろう。


もちろん、交流について論じることじたいは、それがただのことばである、という限界を越えないかぎりは、説得力をもたないものだ。バタイユが、彼の時代とその苦悩のうちで実践していたような、特権的な瞬間の共同体をつくる試みとくらべるならば、いまの私は、まだ、誰かがつくったやり方に便乗しているだけなのだろう。

しかし、私には、私の体験が、バタイユの交流論と深いかかわりをもっているように思われるのである。

もちろん、このようなことは、安易に語ることができるようなことではない。やはり、私が、どれほど、実際の交流を大切にすることができるか、ということにかかっている。


つぎの出展のために、いくつかの新作をつくっている。主体性を取り戻して、私だけができる表現をすることが、課題だ。世界堂で買い物をしていたときに、達磨の起き上がりこぼしを仕入れたから、そちらのデザインも、考える必要がある。

最後になるけれども、今回は、下旬ころから制作していた、缶バッジのリンクを貼っておく。結果としては、自己宣伝となってしまったけれども、それだけではない、ということで。

(令和五年七月丗日)


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 ❦今回の参考文献は《ランスの大聖堂》(ジョルジュ・バタイユ、酒井健・訳、2005年)内の《聖なるもの》という論文(p.78〜89)である。バタイユ初期の論文集でありながらも、彼の思想の基礎となる『供儀』や『好運』といった概念が示されている、ということは興味深い。