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私のブログに、ほとんど毎回いいねマークをつけてくださるフォロワーには、深く感謝している。私が興味をもっている思想についての話題を追ってきてくださるくらいだから、よほど、読解力が高い人なのだろう。

もちろん、そのほかの方々も、ないがしろにしてはいけないと思う。


私は、最近まで、フォロワーを大切にする、ということが、実感として、どういうことなのか、わからなかった。隠れながら生きているため、見られる、ということじたいに、慣れていないのである。あたかも、サイコパスと同じくらい、他者にたいする無関心であるかのようにふるまおうとしていたのだ。

それに加えて『だれも私がやっていることを評価してくれない』という思い込みが、強すぎた。

しかし、私のような奇人が書いているブログに評価をつけてくださっている方々が、たとえ少数でもいるならば、これまでのように、コミュニケーション障害をきめこんでいることは、できない。やはり、門戸を開いたほうがよいことも、ある。



ウェブのコミュニティには、ブロック機能というものがある。ブロック機能を使うならば、気に入らない人物の言動は、なにも気にしなくてすむ。考え方や感じ方がちがうやつは、排除してしまえばいい。

しかし、私には、それこそが、現代社会における孤独感の象徴であるかのように見えることがある。

今は、孤独感を助長するような機能を、皆が利用する。他者の排除を繰り返す。

そのようにして、社会関係は、ますます無関心となっていく。


しかし、私は、ブロック機能など、使用したくないと思う。私が別名義でSNSに参加していた時期に、そのような寂しさを、見ていた。他者のものの見方や考え方を深く知ろうともせずに、個人主義をとおしている人々がいる。そのように、ふるまわなければならないような状況が、常態化しているのだ。

あらゆる付き合いをオペレーション化してしまうような機能に、人と人とのつながりを、委ねさせるべきではない。


仮想空間から離れて、実際の社会を見直してみればよい。

社会には、どうしても付き合わなければならない関係がある。苦手な人物や、相性のよくない人物がいる。もしも、彼らが学校の同級生や、同僚ならば、イヤでも、折り合いをつけなければならない。

そこでは、ブロック機能など、使うことができない。

そのような関係を、どのように解決するのか。


他者を受け入れる、ということが、簡単にできるものだろうか。

もっとも、そのことは、やはり、経験の中で、実践しながら、ということとなってしまう。どうしても、そうなる。

しかし、われわれは『便利な機能ならば、なんでも効率よく使ったほうがいい』というケチな発想から、一歩外へ出なければならない。ブロック機能が、どれほど人間関係を寂しくしているのか、ということに目を向けるためには、他者を、自己にとって都合のよい人と、そうでない人という分割方法によって区切ることを疑わなければならない。

このような観点から見るならば、世間に出回っている自己啓発本や、引き寄せ本のうち、九割は、偏見がある。たくさんの著者が『付き合う人を選べ』と教える。皆、人間関係のオペレーション化にたいして、まったく疑いをはさまないのだ。

たとえ、自己と合わない人間関係を切り離したとしても、つぎに、同じような人物とかかわることとなったときには、どうする?


もちろん、意見や立場などといった違いは、しかたがないこともある。もともと、私のブログは、万人ウケしないような話題ばかりだ。離れていく方々は、おのずから、離れていく。

たとえば、鳩が巣にもどっていく習性と同じように、離れていった瞬間さえも、思い出とすることができるようなときを、待つほかはない。

しかし、私は、私が述べていることが、十割正しい、などと思っているわけではない。


たとえ、人間の切り捨てを繰り返していても、それは、負の連鎖ではないのか。

もしも、そのような危険性が理解できないならば、つぎのように考えてみよう。

たとえば、ブロックをした相手から、逆恨みをされて、ひと悶着おきるような状況に発展してしまうおそれがある。

そのとき、損をするのは、ブロックしたほうなのだ。


べつに、私のほかに『ブロック機能を使うな』と強制するつもりはない。仮想空間の中さえも、自己防衛をしようとすることは、あたりまえのことだ。自己防衛は、罪ではない。

ただ、私だけでも、いまの無関心な風潮とは反対のことをしなければならない、と思っている。

自己防衛といったけれども、自己防衛にも、いろいろな方法がある。そもそも、画面じたいを、しばらく見ないようにする、ということも、ありだ。機能に頼らなくてもできることは、ある。デジタル・デトックスというのは、世間宣伝されているよりも、多くの恩恵があるものだ。

アメーバブログにブロック機能があるか、否か、ということを、私は、まだ、確認していない。サイレント機能のようなものは、あったような気がするけれども『どうせ、使わないな』と考えて、そのままとしている。

いまのところ、この『ブロックしない主義』は、うまくいっている。ブログをはじめてから、ずっと、だれも厄介払いしないですんでいる。

たとえ、ウェブという限定された空間における関係だけでも、他者を排除しないで、うまくやっていこうと思う。

(令和四年十月八日)