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国葬じたいについて、私は、なにか文句をつけようと思わない。私には縁もゆかりもない人物の葬儀だから、とむらいは、身内のほうでやればいいと思う。

いちおう、少数の方々から、尊敬を集めていた人物なのだ。


たとえ、体を焼いて国葬反対をうったえたとしても、自民党の方々は、そのような国民の悲痛な感情にたいして、なにも感じないで、事務的に断行するつもりなのだろう。それくらい、予想できる。

もっとも、今のところ、動機がよくわからないから、あまり、多くのことを語ることはできない。


しかし、国葬に、賛成であるか、それとも反対であるか、などということは、私にとっては、どうでもいい(というか、リアルに私の周囲にいる人々のうちでは、国葬に賛成している人など、ひとりもいない)。

かりに、レーニンのように『安倍廟をつくろう』などという話が湧いてくることは、ないだろう。

ただ『このままいけば、とむらいの当日は、修羅場となるだろうな』というふうに、漠然と感じている。


もしも、いまの私が政治にたいして、意見を述べるならば『政治に希望をもたないほうがいい』と言うだろう。


また、東洋思想の話題も、しばらく、保留にする。

なぜなら、いまの時期に、日本の右傾化を助長するような言論は、危険だからだ。どれほど私が東洋主義者を自認していたとしても、海外で戦争が続いている様子を液晶画面ごしに見るときには『やはり、国家主義はよくないな』と実感する。私は、三島由紀夫のような死に方など、したくない。

事実、私は、先日紹介した昭和天皇の伝記を読むことを、中断している。

いま読んでいるのは、カバラ思想の解説書と、ティク・ナット・ハン(半年前に入滅された、ベトナム仏教の指導者)の著作だ。政治よりも、スピリチュアルなこころのあり方が、重要だ。


私は、東洋主義者であるけれども、国家主義者ではない。私が東洋思想について述べるときには、ある種のスピリチュアルな態度について述べている、と思っていただきたい。



私は、おおげさに表現するならば『政治に無関心な人々など、国民ではない』という考え方に、反発を感じる。

どうしても、政治の力では救われないような国民は、あらわれる。われわれは、すでに、そのような、政治によって救われなかった個人を、知っている。

そのような方々を救うための、具体的な方法など、あるのだろうか。

もっとも、私は、最近の話題となっている《無敵の人》には、共感などしないけれども。


福田恆存は、政治に生き甲斐をもとめようとする日本人を静観しながら『もしも私に生き甲斐を説けと言ふなら、日々の楽しみ方について語りたい』と述べた(旧仮名遣いはそのまま)。

おそらく、政治では救われないような方々が、政治の外部で励まされるような瞬間がなければ、この世の中は、おもしろくないだろう。


政治に敵対するほかにも、恨みをはらす方法は、あるだろうと思う。政治のほかにも、われわれに共同体の感覚をもたせてくれることがらは、あるだろうと思う。私は、そのために、創作しつづけたい。



この話題について、これ以上書くならば、どこかに投稿できる原稿がひとつ仕上がってしまいそうになるため、このくらいで止めておこう。

(令和四年九月廿五日)