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論破する能力は、うらやましがられるようなものだろうか。

私は、そう思わない。


もしかすると、今回の話題は、読者によっては『そんなこと、だれでも知っているよ』と思われるような話かもしれない。


今日のわれわれは『相手になめられたくない』などという杞憂に脅かされている。

なぜ、インターネットのコミュニティは、ほかのユーザーにたいする優位を示す道具となってしまうのだろうか。

その様子を見ているだけで、私は、憂鬱を感じる。

傍から見ていれば、知識を他者と共有しようとして発信している高尚な志をもった方々さえも、見る人しだいで『知識でマウントをとろうとしている』というふうに見えるようだ。これは、とんでもない誤解だ。


しかし、そのような例は、どこでも見られる。

とくに、政治的な話題について、われわれは、熱くなりやすい。私も、最近は、ちょっとだけ、政治とかかわる記事を書いたけれども、無理をして書いたような、窮屈さを感じてしまう。いわんや、さまざまな主張が飛びかうSNSを日課としている方々が、正気を保っていることができている、ということは、私にとっては、驚くべきことだ。

それとも、私が繊細すぎるせいだろうか。


もっとも、この傾向は、西村博之のせいではない。私が見ているかぎりにおいて、ひろゆきサンは、彼の思考と、感受性をたよりとして、社会の見方を身につけている人物だ。彼の知性を、仮想空間に向けておくことがもったいない、と思わせるほど、彼は、ものごとを、さまざまなパースペクティブで観察している。

おそらく《論破王》などという大げさな肩書きは、その意味をよくわからずに付けられたラベルのようなものなのだろう。よばれている本人も、あまり、ピンときていないのかもしれない。


私は、政治のほかにも、世の中をよくする方法は、あると思っている。

たとえば、私が描いた絵を発表することや、このブログを書きつづけることも、政治や、ビッグ・ビジネスの力ではできないことをやろうとして、選んだ方法である。団体の力ばかりがはばをきかせているシステム社会に背を向けて、基本的に、たったひとりの力でもできることを、追求したいと思うのだ。


というよりも、人間は、ほんらい、この世でたったひとりの存在として現在の世界とかかわる、という態度のほかには、社会で活躍する手段はないはずだ。個人が個人主義から脱出するためには、そのほかにはない。その道にも、さまざまな選択肢があるけれども、他者との葛藤が、それらの道を見えづらくしてしまう。


どのようなものでも、他者にたいする念は、こころをかき乱して、動揺させる。

われわれに必要なのは、静かなこころなのだ。ささいなことでは動揺しないけれども、内奥では、あらゆる方向に感受性を向けているようなこころが、必要だ。

静かなこころで発せられることばは、おのずから、静かなことばとなる。


それは、簡単にできることではない。私が、私の主張で、どれほど人を傷つけてきたか、ということをかえりみることもある。それだけでも、まったく、自信がなくなってしまう。


もしも、私が書いたことばが、他者との関係を悪化させるようなことがあったならば、私のことばがもつ価値など、たかが知れている。

何度、創作活動をやめようと思ったか、わからない。


しかし、それでも、気がついたときには、私の体が、勝手に、創作をしている。

(次回につづく)