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終戦の日という機会に《昭和天皇伝》を読むこととした。二回連続で、読みかけの本を話題にしなければならなくなってしまった。序章だけ読んで、そのままにしていたのだ。

エッセイ・コンテストに投稿するための原稿を、私がすでに書いた文章から、三分の一に削減しなければならないから、その作業の合間に読書をする。


そもそも、日本史の話題について、私は、無学を認めなければならない。私は、高校では、世界史を専攻していたのだ。


それに加えて、そのころの私は、日本文化を嫌悪していた、という事情もある。

だから、天皇や戦争についても、私は、上層部が『無責任の体系』だった、という認識を鵜呑みにしていた。

考えが変わったのは《終戦のエンペラー》という映画を観たり、小林よしのりの漫画を読んだりしてからのことだ。


《昭和天皇伝》も、また、昭和天皇の政治責任についての話題からはじまる。著者である伊藤之雄は、中曽根康弘が述べた『昭和天皇は、戦争を回避しようと努力されたと思います』という意見を挙げながら、エンペラーとよばれていた天皇が、実際には、憲法や議会による制約を受けていた、という事実を確認している。

また、中曽根は、戦争における犠牲と破壊について、昭和天皇は『道徳的な呵責に悩んでおられた』という。


ただし、私は、いまだに『支配』という名がつくものを嫌う傾向がある。

おそらく、この『支配嫌い』は、一生かかったとしても変えることができないだろう。幼少のころから、私の周囲には、主張の強い人々が多かった。私は、いつも、他者が言ったことに支配されているような気分だったのである。

そのため、学生のころは、学校の教師だけではなく、いじめの主犯格や、生徒会さえも、私には、敵であるかのように見えた。それほど、支配という要素を排除しようとしていたのである。上下関係は、苦手だ。


戦争を二度とおこさないようにする、と願うことは、大切なことだ。被爆国として、その気持ちは、われわれの歴史に組み込まれている、ということを意識しておいたほうがいい。

しかし、そのためには、まず、われわれの周囲を平和にすることも必要だと思う。

家族の絆や、友情が、必ずしも、あたたかいものであるとはかぎらない。ままならない状況で、こころの平安を守ることさえもできないような人々は、いるのだ。戦争を知らないわれわれにとっては、世界平和と同じくらい、リアルな問題だ。

むしろ、こころが平和であるような人物だけが、世界平和に貢献することができるのだと思う。


私は、人付き合いを最小限にとどめなければ、平和をたもつことができない。

私の作品では、いつも、平和の願いや、こころの平安を表現しようとしているけれども『ほんとうに、それだけでいいのか』と、自己を疑うこともある。

(令和四年八月十五日)