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《川端康成異相短篇集》というのを発見した。

 

 

この短篇集は、文学作品に抵抗を抱いているような読者の方々には、おすすめできると思う。奇妙な非日常の物語をつうじて、ことばを使う文学の味わい方を知ることができる。

それに加えて、夏の風物詩といえば、怪談だ。夏休みの読書感想文で、ネタにすることもできる。


一年ほど前から、川端の作品を読みたいと思っていたのだけれども、ずっと手をつけていなかった。ほかの作家が書いた長編を買い溜めしていたままの状況だったから、そちらのほうを読んでいたのだ。江國香織の《ちょうちんそで》と、安部公房の《燃えつきた地図》のうち、江國を優先することとした。

しかし、どうしても、手軽に読むことができるのは、短篇のほうだ。


異相短篇集という題名に、いつわりはないように思われる。いまのところ、私は、二篇読んだだけだ。

その二篇というのが、やはり、書きことばの特徴をうまく利用したような話なのだ。

たとえば、十五番目にある《無言》という一篇が、私の興味をひきつけた。小説であるということは、ことばで書くのだから、《無言》ということはないはずだ。

もしかすると、これは、私が読んだことのないような文章かもしれない、と思った。なんといっても、題名が《無言》なのだから。

実際に読んでみたら、ほんとうに、不可思議な物語だった。

語り手は、彼の先輩である、小説家の住居を訪ねる。

しかし、その小説家は、すでに、ことばを使うことをやめてしまったのだ。小説を書くことをやめただけではなく、会話さえも、しない。なぜか、彼の娘だけは、彼の意思をわかっている。

物語は、語り手の訪問と、その途中で噂として語られる幽霊の話が、同時進行する。

ただし、過剰なネタバレは、避けておこう。

この短篇集は、欧米でいう『奇妙な味』系の小説に似ている。単調な文体だけではなく、雰囲気も、それに近いのだ。

奇妙さの感覚は、世界で共通の部分があるのかもしれない。


川端は、いわゆる、霊感をもっていたといわれている。

ときどき、私は、著名な作家のオカルト体験について調べてみたくなることがある。

私が知っている範囲だけでも、つぎのようなエピソードがある。


○夏目漱石は、幽体離脱を体験していた。

○芥川龍之介が晩年に書いた《歯車》という私小説には、死神のような人物が登場する。芥川は、なにか、この世ならぬ存在を観ていたのだろうか。

○稲垣足穂は、事故物件に住んでいた。

○三島由紀夫が自決するよりも一年前に、美輪明宏が、三島を霊視していた。美輪によれば、三島は、二・二六事件の首謀者の霊に憑依されていた。このころ、澁澤龍彦も、三島邸で、怪奇現象に遭遇している。


あまり、たくさん列挙してしまうのは、危険かな。

ここに挙げたエピソードのうちの一部は、ウィキペディアに掲載されていた。


もっとも、このような話を、非科学的なものとして否定してしまうことは、簡単なことだ。

しかし、火のないところに煙はたたない、という。やはり、われわれの目に見える現実には、それと並行する、もうひとつの現実がある。もしも、短篇集の編者が、それを異相とよんだのだとするならば、卓越したことば選びだ。


たとえば、私がこの記事を書いている、八月八日の夜に、屋外では、おぼろ月が、不気味に浮かんでいる。

昔の日本人は、おぼろ月夜に、妖怪が出ると考えていた。

われわれは、この現象を、ただ月に雲がかかっているだけだ、ということを知っているけれども、だからといって、おぼろ月の不気味さが消えるわけではない。私が《異相短篇集》を読みはじめた夜におぼろ月が出ていることが、ただの偶然なのか、それとも、必然なのか、という認識ひとつだけでも、私にとって、その本がどのようなものであるのかが変わってくる。

そのズレが、異相ということなのだろうと思う。


たとえるならば、物質の世界に生きているわれわれは、日常生活の表面に、記号が描かれたシールのようにペタリと貼りついているようなものが、ことばである、などとと考えがちである。いまどき、ことばが現実にたいする効力をもっている、という考え方をしているのは、引き寄せの法則を鵜呑みにしている方々くらいのものだ。

そして、ふだん、そのことをあまり自覚する機会も少ない(私も、そうだ)。

しかし、そのような思考は、近代化によってあらゆる迷信を否定した、われわれの限界である。ことばというものが、たましいのない表象である、という感覚は、わずか一世紀ほどのあいだにあらわれた流行にすぎないかもしれないのだ。


月や、ことばそのものは、なにも変わらないはずだ。

しかし、おぼろ月の不気味さや、ことばのたましいは、それらの雰囲気を実体である、ということを認めない人々には、わからない。

(令和四年八月"十二日の金曜日")