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本題にうつるよりも前に、前回の記事で説明不足だったことについて、述べることとする。

安倍さんについて、批判的な意見をたくさん書いてしまったけれども、私は、べつに、人の死を喜んでいるわけではない。ただ『安倍には、もう政界に戻ってほしくない』と思っていただけだ。『この世からいなくなってほしい』などとは思っていない。

この世からいなくなったほうがよい人物など、いない。


私は、ただ、安倍政権の専制に反対だっただけだ、ということをことわっておこう。

あのころは、いちおう、雇用についての制度を改善するなどして、景気が回復した。

しかし、その一方で、森友・加計学園の疑惑などといったことは、うやむやとされてしまった。


このように、政治的なことには、功罪の両方を見なければならないと考えている。たとえ、テレビの報道では、あいかわらず故人を美化する見方をしていても、われわれは、そのようなことに惑わされずに、事実を相対化しなければならない。


私は、私なりに、愛国心をもっているつもりである。

ただ、愛国心といっても、あまり熱心ではない。

それに、安倍の愛国心と、私の愛国心は、かなり異なるものだ。ほんとうの愛国心というのは、あまり意識的なものではない。自国の自然や文化に親しむことによって、意識しなくてもおのずから湧いてくる親しみが、ほんとうの愛国心だ。

それは、わざわざ『美しい国へ』などという著作にしたとたんに、安っぽいものとなってしまう。



統一教会には、私は、複雑な思いがある。

なぜなら、私も、その団体に勧誘されそうになったことがあるからだ。


宗教は、弱者に押しつけてよいようなものではない。私は、禅に興味をもっているけれども、それは、禅の教義というのは、人を拘束するようなものではないからだ(ブッダは『無法こそが法である』と言った)。拘束力が先行してしまうような宗教は、ただの形式主義というものだ。


私の考えでは、わが国の神道や日本仏教は『信じたくなければ、信じなくてもよい』という態度をとっている、という、奇妙な特徴をもっている。神仏習合主義を採用していながらも、その実態は、俗世間と折り合いをつけながら、ゆるやかに変わってきた。その過程は、われわれが考えているよりも、アバウトだったのだと思う。

仏教のほうも、本地垂迦説(日本の神々は仏の化身であるという説)を根拠としながら、うまく立場を正当化したりして、わが国になじんでいった。


禅というのは、ある意味では、どのような宗教よりも無神論に近い宗教である。

もちろん、仏教の経典には、インドの神々も登場する。禅が無神論である、というのは、うそだ。

ただ、自己を規律することによって得た自由は、神々さえもうらやむようなことだ、ということを、ブッダは説いているのである。

現在、わが国で支配的なものとなっている、無宗教主義は、ふつう考えられているのとは反対に、禅が醸成したものなのではないだろうか。


もちろん、カルトの脅威にたいする恐怖心がわれわれを無宗教にさせた、という意見もある。

しかし、カルトの脅威は、わが国よりも、アメリカのほうが、先に経験していた。

そのようなことがあったにもかかわらず、アメリカは、いまだに聖書の国である。事実、大統領が、聖書に手をかざしたりする。

それと比較してみるならば、禅は、経典を過大評価しない。禅僧の中には、経典を燃やしてしまうような、破天荒な人物もいる。このようなことは、聖書の国では、起こらない。それほど、禅は、経典を信用していない。言語作用の中にとどまった思考をいったん否定することによって、どのようなことにもとらわれない自己を確認しなおすのである。

ブッダが語った言葉の内容さえも、禅は、否定する。


『信じなくてもいい』ということが日本宗教の本質である、とするならば、これまで日本人の宗教観について疑問とされてきた、さまざまなことが説明できると思う。


ほんものの精神性をもつ人々は、あまり、みずから、正当性を主張しないものだ。

(令和四年七月十八日)