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安倍元首相の銃撃事件について、なにか述べておこうと思っていた。

しかし、どのように論じても、ブログ記事として成立しないような感触があった。


だから、ちょっと話題をずらして『ポスト銃撃事件』について述べようと思う。あの事件の影響をどのように乗り越えていくのか、ということが、重要な話題だと思う。

なぜなら、あの事件を契機として、物騒な事件が急速に増えたからだ。外出自粛要請が長引いたことによって蓄積された、鬱屈とした暴力の衝動が、いまとなって爆発しているように見える。それがなくても、経済における失われた20年を、だれが解消できたというのだろうか。


このような、われわれの世代が抱いているものは、空虚感といわれる。

しかし、ほんとうに空虚感だけだっただろうか。

その、もっと深い部分には、ニトログリセリンのように、いつ爆発するかもわからないような怒りが潜伏していたように思われる。読者が賛同してくれるか、否かは、わからないけれども、私の感覚では、ずっと、そうだった。


『孤独な夜は

ダイナマイトを心に仕掛けて

右手に怒りを 左手に希望

闘うために走り出せ』


これは、バブル経済が崩壊したころに発表された、ハード・ロックの楽曲の一節だ。私が生まれるよりも、ちょっと前くらいだ。

この歌詞が事実と異なるところは、だれも走り出さなかった、というところだろう。

いや。走り出す力さえも失われていた、とさえ言うことができる。

孤独な夜だ。昼さえも、そうだ。


しかし、ハード・ロックのミュージシャンは、暴力の衝動をポジティブな情熱に置き換えることが上手だ。この楽曲を最近聴き直して、私は、励まされた。一見すると、なんの意味もないような歌詞が、いまとなって、現実味をおびてくる。





2000年にアメリカで発生した、いわゆる9.11の事件と、それに続くイラク戦争は、アメリカの覇権が揺るがされたできごとだった。息子のほうのブッシュ元大統領が、演説していたときに、聴衆のうちのひとりから靴を投げられたことも、私は、記憶している。


そのような、権力の正当性に疑いが生じて、正義と悪の概念がわからなくなっていた時代に、ジャン・ボードリヤールは『悪を実行するのではなく、悪について語る』という態度を説いた。

そして、その態度を、ボードリヤールは『悪の知性』とよんだ。


ほかならぬ、ボードリヤール本人は、哲学者および社会学者という肩書きを利用して『湾岸戦争は起こらなかった』などといった、不謹慎な持論を述べたことも多かった。アメリカの国民は、湾岸戦争をテレビの放送で観ていただけだったからだ。

また、イスラーム勢力による暴力行為について、グローバルなパワーが不足していることではなく、権力の過剰を問題として論じていた。つまり、アメリカのグローバルな権力が強すぎることのしっぺ返しがきているのだ、というのがボードリヤールの主張だった。

彼によれば、現代社会は、すでに悪が客観性をもたないものとされるような状況に入っている。ニヒリズム(虚無感)は、価値の問題ではなく、形態のニヒリズムとして把握されるべきものだ、というのである。

もっとも、そこまで冷淡に述べてしまう彼の観点は、極論であるようにも見える。


しかし、それらは、すべて、言論という枠組みの中で、いちおう筋の通った理論として発言されたことだった。

だから『湾岸戦争は起こらなかった』などと発言したとしても、支持する人々はいたのである。


権力の過剰ということを、わが国の内部だけの問題として考えるならば、まさに、安倍政権が、そうだったのではないか、と私は疑う。現在の岸田首相がのたまわっている経済政策というのも、安倍が言っていたことをそのまま引き継いでいるだけだ。若者たちが『選挙をしても何も変わらない』と諦めてしまうことは、当然の反応だ。


歴史の過去から学ぶことは、よいことだ。

しかし、美しい国を過去にもとめて、ただ憧れたとしても、無駄なことなのだ。すでに、宗教や、政治、音楽カルチャーさえも、われわれの信頼に応えてくれるものではなくなった。それほど、正義の観念は、揺らいでしまった。

しかし、だからといって、世の中そのものを否定することは、退廃的だ。

このような時期こそ、政治への絶望の中でさえも『悪を実行するのではなく、悪について語る』という発想をもとうと思う。

人間の社会には、完璧な正義など、ない。

だから、悪を、悪として語る必要があるのだ。それが、暗殺という悪であったとしても、あるいは、政治権力の悪であったとしても、そうだ。どちらも、人間の不完全さを証明している、ということについては、同じなのだ。

そうだというのに、われわれは、知名度の高い人物を美化しようとする。その人物が、故人ならば、なおさら、美化されやすい。

おまけに、美しい国などという、パラダイスを、夢のうちに見ようとする。


悪について語る、ということは、自己と、時代の混迷とのあいだに、適切な距離を保っておくための方法だ。


そして、悪を、べつの感情に変える感受性は、もっと深いレベルで、もっておこう。

(令和四年七月十四日)