🐉前回



いくら略語が便利だといっても『了解しました』が『りょ』と略されることには、違和感がある。『りょ』では、実質的に一音だけではないか。これでは、了解できない。


インターネットで出回っているもので『(笑)』を『w』という一文字で表す略語も、また、よく見る。『w』は、LINEのやり取りで使われる程度には、一般的なものとなっている。『warai』というローマ字表記の頭文字をとって『w』としたのか、それとも、おもしろさの感情の波を表現した『w』なのか、ということも疑問だけれども、そこから派生した『草』というのは、すでに、広辞苑にも載っている(この起源は、動画サイトのオタク同士のコミュニティだ)。

ネット・スラングというものは、仮想現実の中に閉じられた、限定的なものだ。私が知っているご年配の方が、孫娘からのLINEで『w』と送られてきて、困惑していた。孫娘は、それだけで伝わらない場合であることくらいは了解したようで、つけ加えるように『わら』と送ってきた。しかし『わら』と押しつけられたほうが『わら』の意味を了解できなかった。そのような状況で、私が『w』と『わら』の意味を説明しなければならなくなったのである。


ネット・スラングについて、もう一つ問題を挙げるならば、それは、汚い言葉を含んでいることがある、ということだ。スラングとよばれる言葉遣いは、なんでも、汚い言葉を含んでいる。

パンク音楽の歌詞として、スラングを取り入れることは、社会への絶望や怒りなどといった感情を表現する効果がある。そのように、汚い言葉にも、よい使い方がある。ただし、スラングをよい使い方で無害に使うことができるような場面は、非常に限定されている。『ggrks』という略語などは、このような汚い言葉の典型である(この語の元を知りたければ、各自で調べてください)。このような、投げやりな表現は、ウェブサイトの掲示板などといった、顔を見せずに好き勝手なことを書き込むことができるような空間が生み出したものだ。掲示板で卑しい言葉を吐いたことを非難されたとしても、いつでも逃げることができる。あたかも、トカゲがしっぽを切って逃げるようなものだ。受け取る側の人への配慮がないのだ。

そのようなものを、LINEといった、ある程度顔がわかるような場所に持ち込むことは、混乱の原因となる。


近年は、ライターという職業が人気だ。

しかし、ただ生活のためにライターをやっているだけの人々は、誤字や脱字などといった、文章の見せ方さえも無頓着で、おろそかにしてしまうことがある。ウェブサイトの記事などに誤字や脱字が多いことの理由には、そのような事情がある。おそらく、文章の校正係がいない場合も多いのだろう。これは、ライターだけの責任というわけではない。

しかし、できれば、文章を書いた本人が、自分で書いたものを一度読み直してみるくらいの注意はしてほしいと思う。一万文字くらいの文章でも、一分ちょっとくらいで、さらっと、見直すことができるはずだ。

それさえも、文豪とよばれる方々が悩んできたような試行錯誤とくらべれば、たいした手間ではない。


谷崎潤一郎は《文章読本》の中で『総べて感覚というものは、何度も繰り返して感じるうちに鋭敏になる』と語った。文章の感覚を研くということは、谷崎の論では、重要な意味をもっている。

彼は、とくに、日本語というのは、英語などとは異なり、明確な文法がない、と考えていた。使う場面によって多様に変化する言語が日本語だというならば、理論だけで学ぶことはできない。われわれは、赤ん坊のときから積み上げてきた経験によって、この世界一難しい言語を習得しているけれども、それさえも、すべてを理解しているわけではない。ただ、日常生活に困らないくらいのやり取りならば、あたりまえにできる、というだけのことだ。

しかし、それに加えて、文章を書くとなれば、他人から教えられた文章スキルをそのまま実践しただけで、名文を書くことができるわけではない。谷崎のような、戦後の文学界では神のように崇拝されている文章家さえも、正解など、知らないのだ。

職業的なライターとして、その日ごとに依頼された案件をこなして、収入を稼いでいるうちに、名文家となる可能性は、ある。

ただし、そのためには、書くことと同じくらい、読むことや、聴くこと、そして、話すことにたいしても、上達しなければならない。

(つづく)